礼拝メッセージ要約

2023年8月20日 「伝承と体験」

ローマ書4章 第39

 

17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。 

18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。 

19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。 

20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、 

21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。 

22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。 

23 しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、 

24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。

25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

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アブラハムの信仰を例にして「信仰による義」を説いてきたパウロは、そのまとめとして最後の一節でキリストについてこう要約しています。「私たちの罪のために死に渡され」「私たちを義と認めるためによみがえられた」。ここにキリストと私たち人間との関係が明示されていますので、注意深く読んでいきましょう。まず、前半です。

 

「私たちの罪」の「罪」の原語は、パウロが通常使っている「罪(単数)」とは異なる、一般的な「罪過(複数)」です。パウロがこの後に述べていく、いわゆる「原罪」についてではなく、様々な「過ち」が使われていることから、ユダヤの伝承の文を引用していると言われています。また、「死に渡され」と訳されている部分は、単純に「裏切られ」「引き渡され」という言葉です。これは当然、福音書に記されているユダの裏切りと、それに続く裁判、十字架刑という歴史上の出来事について述べていると思われます。パウロは自身の手紙の中では、ほとんど出来事を物語ることはなく、その意味について端的に述べています。彼はペテロたちとは異なり、十字架の現場に居合わせなかったので、出来事については彼らからの伝承を受けて知ったことになります。この伝承はすでにかなり定式化されていて、第一コリント書15章でも、「もっとも大切な事として受けた」として記されています。

 

この「伝承」は、十字架に関わる出来事の記録と、その出来事の持つ「意味」に関わるものです。その「意味」は、復活のキリストに出会った弟子たちが、おそらく十字架の意味について祈る中で示されたことで、イザヤ書52章〜53章にある「主のしもべ」の預言にそれが記されているものです。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。〜まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」など、「主のしもべ」の受けた苦しみは私たちの代償であったとイザヤは述べています。すでに起こったことのように書いてありますが、これも預言的な内容であり、しかもメシヤ(キリスト)についての預言であることが示されたのです。(因みに、ユダヤ教の伝統の中でも同様の理解がありましたが、今日では、「主のしもべ」はイスラエルのことであると解釈されています)。

 

一般に、義人が苦しむのはなぜかという呻きに対して、そこに代償としての積極的な意義を見るということがあります。その代償が強制されたものであれば、それは許されざる暴挙ですが、自発的なものである場合、事情は異なってきます。キリストの場合に自発的であったことは、十字架に至る過程を目撃した弟子たちには明らかであったでしょう。しかし、キリストが「私たちの罪」を背負ったことは、目には見えません。ただ、その復活によってのみ明らかにされたことです。そして、その復活もイザヤの「主のしもべ」に暗に示されていました。ですから、十字架と復活は一体のことで、全体としてイザヤの預言が成就したのです。

 

その預言の中には、「主のしもべ」によって多くの人が義とされるとあります(11節)。ここに、パウロが述べている「義認」の土台が、主のしもべの苦難であることが明示されています。まさに、私たちの義のためによみがえられたのです。以上のように、ここでパウロは、福音の伝承(十字架にまつわる出来事と、預言による解釈)を引用し、それが「信仰義認」の根拠であることを明らかにしています。それは、ユダヤ人にとっての論証であり、また私たち異邦人にとっては、旧約と福音の関連を理解する手がかりでもあります。

 

ここで「伝承」と「体験」との関連を確認する必要があります。前述のとおり、パウロは「伝承」の出来事には居合わせませんでした。それでは、他人から聞いた伝承を単純に受け入れたのでしょうか。弟子たちを迫害していた彼が、そのようなことをすることは考えられません。彼の土台はあくまでも自身の体験です。すなわち、彼のうちに十字架にかけられたお方が示されたこと、それも、今生きておられるお方として示されたという体験です。その体験の意味について彼は深く祈りもとめたことでしょう。同時に、この「キリスト体験」が、ただ彼の内心での出来事であるだけでなく、イエス様の弟子たちを迫害してきたことが、イエス様を迫害することでもあったと悟ったことが重要です。整理すると、まず出発点は、パウロ自身の「内なるキリスト」体験です。(使徒の働きには、天からの光のように外部世界の出来事としての描写がありますが、彼自身の表現では「内なるキリスト」です)。次に、キリストの弟子の内にキリストがおられるという、共同体(いわゆる教会)での内なるキリスト体験があります。ここに、パウロは共同体の一員であるという事実が明らかになったので、共同体の「伝承」もまた、彼自身のこととして受け入れることが可能となったのです。

 

このことは、私たちにとっても大切なことがらです。他人から聞いたこと(福音の伝承)と自分の体験の両方が必要ですが、その両者が有機的に結びついていなければなりません。一般的には、伝承に書かれていることの一部を自分のこととして体験するという形をとるでしょう。例えば、罪の赦しについて書かれていることと、自分の罪の重荷が取り除かれた経験というように。それはとても大切なことで、何の体験もなければ、伝承は他人事になってしまいますし、伝承を無視した体験は単なる個人的事情に過ぎません。ただし、ここに重要なことがあります。福音伝承の中にある特定の事柄を自分のこととして体験するのは、福音全体を受け入れるためのきっかけとして重要ですが、より重要なのは「キリストについての個々のことがら」以上に「キリストご自身」を体験することです。

 

もちろん、その体験はパウロと同じである必要はなく、一人ひとり固有の出来事です。その形は何であれ、キリストが生きておられることを体験するということです。そして、それは自分だけの体験ではなく、パウロの時代から今日にいたるまで、数えきれない人々の体験でもあります。その具体的なあり方は様々ですが、そこに危険もあります。すなわち、あらゆる霊的体験をそのままキリスト体験として解釈してしまう危険です。

ですから、ここでもパウロのケースが重要となります。すなわち、「内なるキリスト」です。パウロの存在そのものを成立させているキリストが、他の人々をも同様に成立させているという事実に基づいて伝承を受け継ぎます。すなわち、伝承を外部からの情報として受け取るのではなく、すべての人の「主」であるキリストについての貴重な証言として受け取るのです。