礼拝メッセージ要約
2023年8月13日 「復活信仰」
ローマ書4章 第38回
17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。
18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
23 しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
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アブラハムの信仰とは、神には約束されたことを成就する力があることを信じたことでした。このことから、今日の私たちも同様の信仰を持つことが期待されていることが分かります。問題は、「同様の信仰」とはどのようなものなのかということです。アブラハムの場合をそのまま一般化するとこうなります。「神は私にこう約束された。見た目には不可能だが、神は必ず成就してくださる」という信念を持ち続けることです。アブラハムのパターンをコピーするということです。もちろん、神が何かを具体的に約束されたのならば、それをしっかり受け止めて成就を待ち望むことが大切です。しかし、その「神の(個人に向けての)約束」が、アブラハムの場合と同様に具体的で明確であるとは限りません。「個人に対する約束」が明確でないならば、それを確信するといっても、単なる思い込みに過ぎないかもしれないのです。ですから、アブラハムの信仰のパターンを繰り返すことが義認の条件となると、「信仰義認」は非常に主観的になってしまう危険があります。
そこで、「アブラハムの場合」が私たちとどうかかわってくるのかについて、パウロが述べていることに注目しましょう。24節に、「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされる」とあります。私たちが義とされるのは、個人的な事情で発生する不特定の約束に対する信仰ではなく、イエス様を復活させた神を信じる信仰によるのです。いわゆる「キリストの復活信仰」です。では、アブラハムの場合と「復活信仰」はどう関係するのでしょうか?
アブラハムにも、ある種の復活信仰があったといわれています。それは、イサクを捧げよとの神の命令に従おうとした時のことです。イサクが死んでしまえば、子孫が繁栄するという約束は無効になってしまいます。無効にならないとすれば、イサクは生き返るに違いないと信じたというのです。神の約束は、一旦無になったように見えても、必ず成就するという信仰であり、それには、死人が生き返ることさえ含まれているという、非常に強い信仰です。それはそうなのですが、たとえイサクが生き返ったとしても(実際には殺されませんでしたが)、それが「復活」と同じではないことには注意が必要です。復活は、単に一度死んだ人が生き返る(蘇生)することではないからです。死者が蘇生したとしても、その人はまた死にます。それは、大きな奇跡ではありますが、死の一時停止と先送りに過ぎないのです。キリストの復活をそのようなものと考えてはなりません。そして、私たちにとって意味があるのはキリストの復活なのです。
また、アブラハムの信仰と私たちの信仰に大きな違いもあります。アブラハムは将来に対する約束を信じたのですが、私たちに関わるのは「キリストの復活」という過去・現在の出来事です。キリストがいつか戻ってこられることを信じるのとは別です。ですから、私たちは改めてパウロが語っていることを理解する必要があります。まず、パウロは「キリストをよみがえらせた神」を信じると書いています。このことと、「復活は歴史上実在した出来事であることを信じる」こととは同じではありません。信じる対象はあくまでも神であって、出来事ではありません。もちろん、出来事自体を否定しては始まりませんが、過去の出来事は「信じる・信じない」ではなく、「事実と認める・認めない」の対象です。十字架の死と数日後の出来事を事実認定するかどうかは歴史家の研究対象ですが、タイムマシンがない以上、絶対的に確定することはできません。そのようなことが問題となっているのではないのです。
「信仰」とは、神を信頼するということです。ただし、一般論としてではなく、具体的に「キリストを復活させたお方」を信頼するのです。これを理解するには、逆のケースを考えてみましょう。「キリストを復活させた神を信頼しない」とはどういうことかです。「キリストを復活させることができなかった(そもそも復活などない)」「復活させようを神は思わなかった(復活に値しないと思った)」「復活させるような神は信用できない(復活は自然の秩序に反する)」「復活させようがさせまいが自分には関係ない」というようなケースが考えられます。どれもあり得るケースで、よく検討すれば多くの人はそのように考えるでしょう。そして、そのような考えの人はアブラハムとは異質で、義と認められないと思われます。
しかし、それだけならば福音ではありません。ここに大逆転があるのです。この、神を敬わない不敬虔な者を義と認めてくださる方がおられるからです。このことは、歴史的出来事の認定だけではわかりません。復活の「意味」が重要です。復活は生き返りではなく、今、永遠のいのちであるお方がここにおられるということです。そのようなお方が十字架で死なれたのはなぜか、それは私たちの罪のためです。しかし、そのようなことは目には見えません。神がご自身のひとり子に人間の罪を負わせるなど、あり得るのでしょうか? 人間的には酷いことのようにも思える十字架が、実は神の愛の現れであるというのは本当なのでしょうか? これに対して「はい」と答えるのが信仰です。逆に「復活はない」というのは、「いいえ」と答えることを意味します。十字架と復活はふたつでひとつの出来事ですから、復活信仰とは、実質的に「十字架の贖罪」信仰と同じなのです。
神がキリストを(死に渡された上で)よみがえらせたのは、この贖罪が成立し、永遠に有効であることを示すためです。言い換えると、私たちの救いのために、最愛のひと子をお与えになられるほどに私たちを愛してくださる神を信頼するのかどうかが問われているのです。すなわち福音そのものです。しかし、この福音とアブラハムの信仰がどうつながるのでしょうか? アブラハムはキリストの復活を知らなかったのではないでしょうか。ここにも「事実認定」と「信仰」の違いがあります。十字架という歴史的事実をアブラハムは知らず、贖罪の意味も理解してはいなかったかもしれません。しかし、彼は神の「真実」を信じたのです。そこにどこまで「アガぺの愛」も含まれていたかはわかりません。いずれにしても、彼は何かの事柄(歴史上の出来事や教理)ではなく、神ご自身を信頼したのです。その神が今やキリストを遣わされました。それは、アブラハムだけではなく、多くの人(そして聖書)が指し示していたことであり、そのクライマックスが十字架と復活なのです。そのようなお方を私たちは信頼しているのであり、アブラハムの場合と同じ神を私たちも信じています。ですから私たちはアブラハムの子孫であり、約束の子どもたちなのです。