礼拝メッセージ要約

2023年8月6日 「神による創造」

ローマ書4章 第37

 

17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。 

18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。 

19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。 

20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、 

21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。 22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。 

23 しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、 24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。

25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

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パウロは、ここまでアブラハムの例を挙げて「信仰義認」を語ってきました。ここで、あらためて「アブラハムが持っていた信仰」の具体的な質について述べています。アブラハムが信じていた「神」がどのようなお方なのかが問題です。それは「死者を生かすお方」であり「無いものをあるもののようにお呼びになるお方」です。因みに、神がそのようなお方であるというのは、パウロの独創ではなく、当時のユダヤ教(特にパリサイ派)の正統的な信条でもありました。「死者を生かす」とは復活信仰であり、「無いものをあるもののように」というのは、「復活信仰」でもあり「創造信仰」でもあるからです。「創造信仰」と「復活信仰」が結びついているのが、「唯一神信仰」の特徴なのです。

 

形の上ではそうなのですが、問題はその中身です。まず「創造信仰」から見ていきましょう。当時も今日も「創造」とは「無から有をもたらす」ことだと言われます。一方で、天地創造を批判する人は、無から有は生まれない、そんなことは不可能だ」と言います。それに対して、その不可能を可能にするのが神だと反論が続きます。そのような議論は果てしなく続いているのですが、それはもはや哲学的な議論となってしまいます。そもそも「無」とか「有」とは何かさえはっきりせず、哲学上の永遠のテーマ(存在論のこと)となっているのです。もちろん、存在論そのものは大変興味深いものではあり、古代のギリシャ哲学以来、今日まで人間に知的探求心がある限り続いていくでしょう。ユダヤ文化も、当時ギリシャ文化との出会いの中で、存在論的な思考を取り入れるようになり、その結果、無から有へという定式が生まれてきたとも言われます。

 

しかし、元来ユダヤ(へブル)の考え方では、ものごとを「存在(ある)」としてよりも、「生成(なる)」として捉えます。それは、ものごとについて、どのような問いかたをするのかという問題です。「それは何なのか」と問うのではなく、「それは、どのような事態なのか」という問い方です。単純化すると、前者(ある系)は、ものごとにレッテルを張って定義する傾向が強いのに対し、後者(なる系)は、固定化した定義よりも、ものごとの移りゆくプロセスに注目するということです。例えば、あの人は何者? という時に、前者であれば、人種、年齢、性別、職業、趣味などのさまざまな要素を列挙して説明しようとします。性格についても、強気とか弱気とか、レッテルを張りがちです。それに対して後者では、その人の歩み(歴史)を語り、どのように「なってきたか」「これから、なっていくのか」というプロセス、動きに注目します。言い換えると、不変の法則よりも歴史を重視するということです。それは常に動いているのですから、どこか一点だけを切り取ってレッテルを張っても一面的な理解しか得られません。「なる」という動きが大切なのです。

 

ですから、「無いものをあるもののように呼び出す」という表現も、「呼び出す」という言葉があるように、それをダイナミックなプロセスとして捉える必要があります。アブラハムの場合も、神は彼に対して、ありえないはずの子孫を約束され、後にそれを実現されました。神はまずアブラハムという「人」に声をかけ呼び出されました。そして、まだ存在していないものを将来呼び出す約束をされました。アブラハムは、この「呼び出し」に呼応したのが、彼の「信仰」であり義の根拠です。ただし、この信仰も実は神がアブラハムの中に「呼び出した」ものであり、人の自力によるものではありません。信仰もまた神の恵みの結果なのです。そして、神はアブラハムの子孫を後に生み出し、彼が「諸国民の父」となりました。このプロセス全体が、神の創造の業なのです。

 

ですから、神が創造主であるというのは、天地創造の一点の話ではなく、歴史を創造しておられるお方だという意味です。もちろん、これに反論する人もいるでしょう。「天地創造の業は6日で完成し、7日目は休まれたではないか。だから我々は安息日を守るのだ」と。そのような律法学者たちに対して、イエス様は「わたしの父は今も働いておられる」と言われ、そのしるしに、安息日に人々を癒されました。「主は生きておられる」というのは、ユダヤ教の決まり文句にとどまらず、まさに根本的な真理です。アブラハムはそのような神の御前で義とされたのです。言い換えると、彼もまた私たちも「神が創造されている歴史に参与している」ということです。歴史は一見人が作っているように見えます。人が「事を行う」世界です。ところが、実は神が歴史を作っておられます。人為を超えた神為(いわゆる御心)があるのです。それを人の側から見ると、物事が「成っていく」のです。人為的ではなく「成立していく」のですから、「自然」ということもできます。しかし、それは天然自然のままとか、運命的に成るようになるというのではありません。そこには、神が呼び出すという事態があるのです。

 

神は語られたことを実現されるというのが根本です。神は全能なのだから、どんなことでもできるだろうという話ではありません。ただやみくもに奇跡を信じるということでもないのです。神の創造の歴史の一拠点とされているということです。アブラハムの場合は、「諸国民の父」となるということでしたが、そのようなことは、彼の存命中に見ることはできず、それどころか、数千年後も現在進行中の出来事です。「諸国民の父」とは「何か」を定義しイメージを作って「心に念じて信じた」という話でもありません。神の語りかけにたいして、漠然として「夢」は抱いたでしょうが、問題はその「夢」自体ではなく、神は、ご自身のことばによって物事を歴史的に創造していかれるということを信じていたということです。というよりも、そのようなお方を「神」と呼んだのです。

 

ですから、神の奇跡とは、神が歴史を形成されるにあたり、まず人に語りかけ、その人の心に「信仰」を創造されることです。神は人に頼らず、ご自身だけで歴史を作ることもおできになりますが、私たちをご自身の民とするために声をかけておられます。無に等しい私たちを呼び出し、歴史を作っていかれます。しかも、その歴史はアブラハムの場合と同様、必ずしも人の一生で完結するわけではありません。アブラハムは諸国民の父であり、私たちはその諸国民の一員です。私たちは、アブラハムの歴史に連なっているのです。それは無から有が生み出される歴史です。「何の働きのない者が、不敬虔な者を義としてくださる方を信じる」ことが、まさに神の創造の歴史の中で実現しているのです。私たちは、自分の中に何もないどころか、不敬虔な者でありながら、神はそこに信仰をもたらし義としてくださいます。この歴史の中で私たちは救われているのです。