礼拝メッセージ要約

2023730日 「世界の相続人」

 

ローマ書4章 第36

 

13 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。 

14 もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。 

15 律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。 

16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。

「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。 

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アブラハムやダビデの例をあげて、「信仰義認」がユダヤ人・異邦人の区別を超えて与えられると説くパウロは、アブラハムが「諸国民の父」であるという神の約束から、さらに重要なテーマを引き出します。それが、「世界の相続人」というテーマです。この言葉だけを見ると、やや唐突な感じも受けますが、信仰義認を告げる「無差別の福音」から必然的に導きだされる大切な話なので、注意深く読んでいきましょう。

 

まず「相続人」とは何でしょうか。ユダヤ人の文脈では、「相続」とは「約束の地を相続すること」を意味します。神がアブラハムの子孫に約束された土地(領土)は、カナンの地と呼ばれていますが、創世記1518節によると、それは「エジプトの川からユーフラテス川まで」と記されている膨大な領土を指しています。そこで、アブラハムの子孫は星の数ほどに増えると約束されています。この領土の約束は、今日の「パレスチナ問題」に直結するので、簡単に整理しておきましょう。

 

ユダヤ人にとって「約束の地」はアブラハムに神が約束された土地であるだけでなく、異国の地に散らばった民にたいしても、預言者たちがその帰還を預言してきた場所です。そのため、ある意味で、約束の地を否定することは聖書を否定することであり、それは神ご自身を否定することにもなってしまいます。この考え方は、ユダヤ人だけでなく、キリスト教内部でもあり、アメリカでは「福音派」と呼ばれる人々の多くが、政治的にも親イスラエルの立場をとっています。聖書を、霊的なことがらだけでなく、この世の物質的・政治的なことがらまで直結して解釈する立場は、その主張に一貫性があるように見え、力強い信仰の魅力もあります。ただし、そのような人々でさえ、現在のイスラエル共和国の領土を、現状をはるかに超えて「エジプトの川からユーフラテスまで」拡張すべしと公然とは主張しないでしょう。エジプトの川がナイル川のことだとすると、その領土はエジプトの一部からイラクの一部まで拡がってしまい、イスラエルはその全盛期でさえ、そこまで拡がったことはありませんから、これは大変なことです。(しかも、超正統派と呼ばれる人の一部少数派には、今日の世俗的イスラエル共和国を真のイスラエルとは見做していない人すら存在するぐらいです)。いずれにしても、現在のシオニズム(イスラエルのパレスチナ所有)=聖書の真実性という図式は単純すぎます。

 

パウロの時代に戻ります。当時の「黙示思想」的世界観の中で、約束の地の相続は拡張されて、「世界の相続」という形で理解されるようになっていました。黙示思想の枠組みは、世界は堕落の一途をたどり、最後には破局を迎え、神が介入し、新世界が訪れるというものです。そして、艱難を乗り越え、神に忠実であった義人がその新世界に住むことになります。これが、「世界の相続」と呼ばれるもので、カナンの地はその中心ではありますが、全世界が対象になっています。このような「カナンから全世界」への拡張は、黙示思想の創作ではなく、そもそも、アブラハムが「諸国民の父」となる約束から出ています。もちろん、ユダヤ教の枠組みでは、新世界はカナンの地に再建されたイスラエルが中心となり、他の諸国はそれに従うという形になり、結局それは全世界が律法に従い「ユダヤ化」されることと同義になるでしょう。パウロはまさに、その「全世界のユダヤ化」自体を拒否しているのです。「無差別の福音」たる所以です。

 

ですから、パウロは「アブラハムの子孫」が、単に民族のことでもなく、ユダヤ人律法に服することになる異邦人のことでもなく、アブラハムの信仰にならう者であることを強調します。それは、アブラハムの子孫への約束が、律法の与えられる前に与えられたという事実があるからです。以前、信仰の後に律法が与えられたという順序を見ましたが、ここでもその順序が繰り返されています。「約束」が律法に先行する以上、約束は律法の民(ユダヤ人)に限定されないのです。それなら、なぜ律法が与えられたのかという問に対しては、2章以下すでに論じられましたが、改めて「怒りを招くため」、すなわち罪(違反)を明示し、神の裁きをもたらすためであると簡潔に述べています。律法のこの性質については、7章で深められます。

 

ここまでを確認した上で、では「世界の相続」とは何を指しているのかを考えましょう。具体的な話は8章で展開されるので、ここでは背景となる部分を見ていきます。「相続」という言葉は、パリサイ派や新約聖書の中では、「神の国を相続する」という形で使われています。このことが、「永遠のいのちを相続する」とも表現されているところがポイントです。ヨハネ福音書に至っては、永遠のいのちを得ることが中心テーマとなっているのは周知のことです。ですから、「世界の相続」「神の国に入る」「永遠のいのちを持つ」ことは、実質同じことを指しています。そこで、永遠のいのちをどう捉えるかが問題となります。黙示思想では、大破局後に訪れる新世界で生き続けることを意味します。永遠を、単純に終わらない時間の継続と見做します。しかし、ヨハネ福音書で強調されているように、永遠のいのちは、破局後の新世界を待つまでもなく、今ここで受けることができるのです。つまり、「永遠」は、時間の長さというよりも、その質、すなわち神に属している質を指しています。

 

このような「いのち」について、聖書で図式的な解説を読むことはできません。そもそも、「いのち」は物ではないので、「それは何か」という形で問うことはできず、ただ「どのような状態か」としか言えないのです。ですから、「相続」という言葉から、「何かの物を所有するようになる」といった印象を持つことは避けなければなりません。その意味で、一旦はカナンの地などの「領土の占有」という観念から離れる必要があります。いわゆる「霊的」に解釈するということです。ただし、それは「一旦は」ということであって、現実世界のイスラエルが無価値になるのではありません。このあたりの消息は、9章以下で語られることになります。そうではあっても、あくまでも「霊的視点」が出発点であり、それなしには、すべてが無意味になってしまいます。

 

永遠のいのちは神のいのちですから、人はそれを「所有すること」はできません。ただ、神のいのちに「与る」ことができるだけです。「与る」というのは、神のいのちによって生かされているという意味です。逆に言うと、人は一般的に神のいのちによらず、人のいのちを「自律的」に生きているだけなのです。すなわち、霊の次元を欠いた動物としての人間です。パウロはそれを「血肉」と呼んでいます。「血肉」が神の国を相続できないのは当然でしょう。神の国とは「神の支配」のことなのですから。ここで、改めて「神の支配」とは何を意味するのかが問題となります。福音によれば、それは、律法の支配ではなく。神の恵みの支配です。アブラハムに約束されたのもこの恵みの祝福であり、すべての人に開かれています。ですから今や、「主の名を呼ぶ者はだれでも救われる」のです。