礼拝メッセージ要約

2023723日 「しるしとしての割礼」

 

ローマ書4章 第35

 

それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた。」と言っていますが、

10 どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。 

11 彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、 

12 また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

ユダヤ人に向けて、無差別の福音を証明するため、アブラハムやダビデの場合を語ってきたパウロは、改めて、この幸い(すなわち福音の恵み)が異邦人にも適用されていることを確認します。ユダヤ人向けの論証が続いていますが、異邦人である私たちにも関係する重要な点なので、続けてパウロの言葉に耳を傾けましょう。

 

アブラハムが「信仰による義」を受けたのは、どの時点なのかということが問題とされています。それは、割礼を受ける前なのだから、無割礼の人も同様に、異邦人のままで信仰義認を受けることができるというのが結論です。そのことは、これまでも繰り返しパウロが主張してきたことです。しかし、それでも反対者たちは言うでしょう。「たとえどうであっても、結局アブラハムは割礼を受けてユダヤ人になったではないか。順序はともかく、かれがユダヤ人であることにかわりはないではないか」と。しかし、この順序は決定的に重要だというのが今回のテーマです。これは、結局「ユダヤ人とは何なのか」という、2章後半で語られたことと繋がって、福音の驚くべき内容を示しています。

 

無割礼の時に義とされたのは、異邦人にも義認が与えられる確証であることは、繰り返し述べられてきましたが、それならば、アブラハムが後に割礼を受けたのは、どんな意味があるのかということがまず問題となります。パウロの答えは、それは「無割礼の時の義認のしるし」だというものです。これは驚くべき主張です。というのは、通常「割礼」はユダヤ人(すなわち選民)であることのしるしだとされているからです(創世記17章)。神がアブラハムとその子孫に対して祝福を約束された際、その契約の「しるし」として割礼を命じられたからです。(割礼という言葉は契約という意味があります)。通常の理解によれば、この契約は、アブラハムの血縁上の子孫(イサク、ヤコブの子孫)が増えイスラエル国民となり、約束の地を相続することですから、要するにユダヤ人であることの「しるし」です。単純で分かりやすい話ですが、それが今日のパレスチナ問題にまで続いている、厄介な事柄でもあります。基本的に、これは物事を物質的な観点から捉えた解釈だと言えるでしょう。

 

それに対して、パウロは、より本質的な事柄、すなわち神との関係という「霊的」な観点から語ります。アブラハムの子孫が反映し、彼が「諸国民の父」となるのは、彼が単にユダヤ民族の始まりだからではなく、彼が神によって義とされたからだと言います。割礼は、本来はそのこと自体のしるし(霊的な事柄のしるし)なのであって、単なる民族のしるしではないのです。ここから、パウロは重大な結論を導き出します。それは、「いわゆるユダヤ人(血縁上)」が約束の子孫なのではなく、義とされた者、すなわちアブラハムと同質の信仰を持つ者が子孫なのだということです。(これについては、9章以下のイスラエルについての議論でさらに深められます)。2章で、肉の割礼ではなく、御霊による割礼の者が真のユダヤ人なのだと述べている通りです。御霊による割礼は深いテーマで、8章において聖霊が語られる際に取り上げます。詳細はともかく、ユダヤ人のすべてが神に祝されているのではなく、その一部が「残りの者」として祝されるというのは、パウロの独創ではなく、旧約の預言者たちも語っていたことではあります。

 

ただ、今回の箇所では、別の問題も取り上げられています。信仰義認のしるしとして割礼を受けたというのなら、異邦人もアブラハム同様、割礼というしるしを受けるべきではないのかと問われている問題です。つまり、異邦人もユダヤ人になるべきではないかという人がいるのです。パウロの議論は、やや複雑です。割礼の本来の意味は、義と認められたことのしるしなのですが、現実には、そのこととは関係なく、ユダヤ民族という集団が存在しています。パウロは、一旦はその現実を受け入れます。そして、アブラハムが割礼を受けたのは、彼らの「父」となるためだという結論に至ります。整理すると、霊的な次元では、民族とは無関係に、義と認められた者はアブラハムの子孫(霊的なユダヤ人)なのですが、肉的な次元(歴史上の目に見える世界)では、ユダヤ人と異邦人という区別が存在し、その両者の中に、アブラハムの子孫が存在するという構図です。ですから、この肉的な次元での区別(ユダヤ人と異邦人)を失くしてしまうという考えは否定されます。

 

この二重性(霊的にはユダヤ人と異邦人がひとつでありながら、肉的にはふたつである)という真理は、実は福音の根本テーマで、ローマ書はそれを伝えるために書かれたといっても過言ではありません。また、エペソ書では、「新しいひとりの人」という言葉で、この真理が書かれています。その土台として、割礼のことがここで書かれているのです。この「霊的な次元」と「肉的な次元」の二重性を理解しないと、二つの誤りのどちらかに陥ることになります。それは、ローマ書の時代で問題になっていた、「異邦人もユダヤ人になるべし」というユダヤ化主義という誤りと、反対に、「ユダヤ人も異邦人になるべし」という反ユダヤ主義という誤りです。パウロの時代は前者、そして、その後のキリスト教世界の歴史では後者が問題を起こしてきたのは周知の事柄です。

 

この、いわゆる「同化主義」は、ユダヤ人問題に限らず、国際問題から家庭にいたるまで、あらゆる所に見られます。今日の民主主義社会(その中の所謂リベラル)では、多様性が重視され、少数派を多数派に同化しようという考えは良くない(あるいは時流にあわない)とされます。肉的な次元に限れば、そのような多様性尊重は、福音的と言えるでしょう。ただし、福音には霊的な次元があります。(というより、それが土台です)。すなわち、神の前でどのような存在なのかという問題です。霊的な次元では、民族はもちろん、宗教、性差、地位など、人間社会に存在するあらゆる区別は何の意味もありません。もし意味があるとすれば、神から与えられた使命が何かということでしょう。特定の区別をとおして、区別を超えた霊的な次元を指し示すという使命です。

 

この「区別」の世界と通して、区別のない、霊的な世界を示し表すのが福音の本質なのですが、それは、単に瞑想の世界で悟るというのではなく、現実世界の対立を乗り越えて和解するという、具体的で厳しいプロセスを通して実現されていくものです。(パウロは主に異邦人向けに書いたコリント書では、この「和解」という言葉で論じています)。対立しているものを、どちらかに同化させるのではなく、そうかと言って、両者を混ぜ合わせて中和するのでもなく、両者の個性を維持したまま、なお両者がひとつである次元で一致するのが福音のもたらすものです。この世では、それを神抜きに、何かのイデオロギー(リベラル主義など)で実現しようとしますが、それは、今度は保守主義との対立を生み、両者の解離がますます世界を分断しているのは周知のことがらです。人間は、今一度、神の前にへりくだり、ただ恵みによって罪赦され、義と認められるところに立ち返らなければ、決して、真の一致と平和が訪れることはないのです。ですから、私たちは自分の力に頼りません。「主の名を呼ぶ者は、だれでも救われるのです。」