礼拝メッセージ要約
2023年7月16日 「ダビデの場合」
ローマ書4章 第34回
1 それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。
2 もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。
3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。
4 働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
6 ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。
7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。
8 主が罪を認めない人は幸いである。」
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神を「不敬虔な者を義と認めてくださる方」として信じる者は、その信仰の故に義と認められるというのが、福音の宣言する「信仰義認」です。これは、ある種の逆説ですが、それは愛と希望と一体の信仰であり、盲信とは異なることを学びました。この事態をより確かなものとして説明するために、パウロはダビデの言葉を引用します。ここで、ダビデについて確認しておきましょう。言うまでもなく、ダビデはイスラエルの歴史上、最大の「偉人」です。ダビデによってイスラエル王国が確立されただけでなく、その子孫が続くことが期待されていました。いわゆるダビデ王朝です。そして、その究極には、メシヤが「ダビデの子」として到来し、神に祝された「王国」が約束の地に確立されると予告されています。(今日のイスラエル国旗にも「ダビデの星」が描かれています)。
そのような「偉大な王」でありつつ、彼は音楽や詩作にも通じ、多くの詩篇を残しました。その中で、彼は個人的な心情や信仰を赤裸々に告白しています。有名な詩篇51篇には、人妻であるバテシェバを自分のものとし、彼女の夫を謀殺するという恐ろしい罪を犯したダビデに、預言者ナタンが訪れ、罪を指摘した時の祈りが記されています。(第Uサムエル11、12章参照)。そこでは、ひたすら神のあわれみによって罪が清められることを祈っています。その時の祈りと関連があるのか、詩篇31篇では、罪が赦された者の幸いを詠っており、パウロは、ローマ書でそれを引用しています。サムエル記に記されている歴史上の経緯を見ると、神はダビデの罪に対して、部分的な罰を与えていて、彼の罪が全く赦されたわけではありません。バテシェバとの子も死に、ダビデの家から剣が絶えないという予告もされています。ですから、ここでダビデは、自分の体験談というよりも、預言者的な言葉を語ったと言えるでしょう。
すなわち、パウロは歴史上の出来事を引用しつつも、それとは異なる次元のこと(すなわち福音)を語っていることを理解する必要があります。歴史上の出来事(ダビデのケース)と福音の違いは明確です。前者の赦しは部分的で後者は全面的であることです。部分的というのは、罰がまだ残っている、あるいは条件付きであるということです。そこでは、ダビデのケースでも分かるように、赦しが「あわれみ」という一般的な理由によるにせよ、あるいは、神の人智を超えた計画の一部であるからにせよ、そこに、明確で客観的な赦しの根拠が明らかになっていません。あくまでも暫定的な措置なのです。
また、ダビデのケースはあくまでも彼個人の話であって、それが他に人に適用される保証もありません。このダビデだけが特例で幸いなのであれば意味がないのです。この場合に限らず、聖書に記された一つの出来事を取り上げて、それを無条件に一般化する誤りを犯す危険は常にあるので注意が必要です。歴史は繰り返しません。一人一人の人生はユニークなものであり、一般化を許さない部分があります。しかし、そのユニークな出来事が、将来起きる事の「型」として、いわば予告となることがあります。それが「預言的」な性質を持つ出来事です。ダビデの出来事も、その意味で「預言的」ですが、それに意味があるのは、私たち一般人の出来事を直接予告するのではなく、あくまでもキリストを預言しているからです。私たちは自分自身ではなく、まずキリストに目を向けるのです。そして、そこから改めて自分自身を見ることが必要です。
ここでのパウロの論点は明確です。不法を赦され、罪をおおわれた人は神によって義とされた人であるということです。不法を赦されたのは、当然ですが不法を行っていたことが前提です。神に義と認められた人とは、赦された罪人のことです。昔は罪人で今は義人なのではなく、あくまでも罪がおおわれた人です。ここで「おおわれた」というのは、カバーをかけて隠したという意味です。ここで注意が必要なのは、いったい何(誰)から隠したのかということです。もちろん、他人の目からではありません。本当は悪人なのに社会的には善人に見えるとしたら、それは詐欺のようなものでしょう。そうではなく、神から隠したということです。しかし、神は全てをお見通しなのではないでしょうか。もちろん、神は全能なのだから何でもできると言ってしまえばそれまでです。しかし、神は何でも恣意的に事を行うお方ではありません。神は秩序の神でもあります。そこには、神の決定的な行為があるのです。それを解き明かしているのが福音に他なりません。
パウロは「主が罪を認めない人は幸いである」とも引用しています。この部分だけをとると、神が単に罪に目をつむったように読むこともできます。しかし、そうではなく、あくまでも罪を覆い隠したのです。これは、ある意味とんでもないことです。神はどんなに隠れた罪でも、究極的には明るみに出されるのです。その神が罪を覆い隠されるのですから、私たちはそこに神の尋常でない行為を見なければなりません。まず理解しなければならないのは、神は神の義を示されるということが必要だということです。罪を覆うことが正しいのは、唯一、神ご自身がそのことに責任を負われる場合です。すなわち、神ご自身がその罪人を庇うことにより、その罪を引き受けることです。この時、罪そのものが消えたわけではありません。それは神の前に明らかです。ところが、奇跡的なことに、その罪がキリストの上に置かれているために、罪人はキリストの陰に隠されているのです。
ですから、罪がおおわれたというのは、キリストが罪人を覆い隠したという意味です。ダビデの言葉が預言的であるというのは、キリスト抜きで、真の意味で罪が覆われることはないからです。(どんな生贄も十分でないことを、ダビデ自身も、また預言者たちも語っています)。詩篇にも、主の御翼の陰に隠れるという表現がありますが、それが単なる希望や気分で終わらないのは、そこにキリストという不動の「覆い」がいてくださるからです。そればかりでなく、私たちがキリストの陰に隠れるというよりも、キリストご自身が進んで私たちを覆ってくださったのですから、私たちはキリストに全幅の信頼を寄せることができるのです。
キリストが私たちを覆われているならば、神が私たちを見る時に、十字架のキリストを通して見ることになります。そして、その罪の代価は、キリストのいのちによって完全に支払われているのですから、神は私たちの罪を認めないのです。神が義と見做してくださるというのはそういう事です。そのような人が幸いであるのは自明のことでしょう。この幸いが不敬虔な者に与えられるというのが福音であり、その福音の土台が十字架のキリストです。私たちの信仰とは、十字架のキリストを見上げると共に、このキリストの陰に身を寄せることです。もちろん、信仰はそこで終わるのではなく始まりでもあります。パウロの言う「キリストと共に十字架につけられ、キリストと共に生きる」という、「信仰から信仰へ」と進んでいく道です。そして、その道はだれにでも開かれているのです。