礼拝メッセージ要約

202379日 「アブラハムその2」

 

ローマ書4章 第33

 

1 それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。

2 もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。

3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。

4 働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。

5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

6 ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。

7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。

8 主が罪を認めない人は幸いである。」

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パウロは「信仰による義」が聖書(ユダヤ教)に基づいていることを証明するために、アブラハムの場合を取り上げています。前回、それは「信仰と行い」ではなく、「信仰と称される行い」でもないことを、「誇りの有無」という観点から見ました。この、「恵み」の真理はとても重要でありながら、すぐに変質してしまう危険があるので、パウロは4節以下、念には念を入れて、恵みについて語ります。

 

4節ではまず、報酬と恵みが対比されます。「行い」とは「働き」です。アブラハムが神の命令に従ったから祝福されたというのなら、その行いは働きであり、祝福はその働きに対する報酬となってしまいます。いわゆる労働であり、神と人との取引です。この取引という観念は人にとって非常に強いので振り払うことは容易ではありません。それは、必ずしも労働の現場だけではありません。「借りは返すべし」という、社会の規範のようなものです。例えばご祝儀に対して返礼をする行為は、労働上の取引ではありませんが、相場があることからも分かるように、社会秩序を維持するための、暗黙の取りきめであって、「お祝いありがとう」だけで済ますわけにはいかないでしょう。

 

また、取引よりも微妙なのは、「良い子へのご褒美」のようなケースです。子どもが何か良いことをした時、最初は親と取引をしているわけではないでしょう。しかし、子どもは特定の行為(善行)が褒められることを学ぶと、それが動機となって、さらに善行を行うようになります(あるいは、そうなることが期待されます)。それは、社会性を身に着けることであり、それができないと後で困ったことになるのですが、この社会性というのが、要するに「取引」の仕組みを学ぶということなのです。基本的に取引抜きの関係というのは、おそらく乳飲み子に対する親のような、例外的に成立する全面的な献身のような場合に限られています。それでさえ、その献身が社会的に認知され評価されていなければ、存続は困難なことでしょう。このように、働く者が報酬を受けるというのは、金銭のことに限定されず、社会を成立させている根本原理なので、これを軽視することはできないのです。

 

しかし、その根本原理と対立するのが「恵み」で、福音とは徹頭徹尾「恵み」なのです。単に「良いものをもらった」ことを「恵まれた」と言うことがありますが、「取引」「貸し借り」の原理と対立するものと理解しなければ不十分です。5節でパウロは「信仰」は「何の働きもない者が信じること」だと言っています。まず、だれが信じる話なのかというのがポイントです。結論としては「だれでも」よいのですが、その前提として、それは「何の働きもない者」のことなのです。もちろん、ここでの「働き」とは神の前での働きのことであって、人間社会の話ではありません。人間社会では働くのは当然であり祝福でもあります。そして、働く以上、できるだけ良い働きを目指すべきです。しかし、そのような事をもって神の前に「義」を主張することはできません。人は神の前では「無」なのです。無というのは、劣っているということではありません。そもそも神と比較することなどナンセンスです。そうではなく、もし人が何某かの働きをするとすれば、それは元々神から出ているのであって、自分で作り出したのではないということです。私たちは神の働きの「通りよき管」のようなものであるべきであって、管が自己主張をするなら神の働きを止めてしまうのです。

 

ですから、そもそも人には神に誇るような働きなどありませんし、また不可能です。問題は、そのような意味で「無」である人が無ではないと主張することです。神のしもべが転じて、神を自分のしもべのように扱うようになるという「本末転倒」が「罪」の実態です。この状態を「不敬虔」と呼びます。敬うべきものを敬わないという意味です。ですから、働きのない者とは、社会的な意味で無力な人ではなく、まさに「不敬虔」な者のことです。その意味で「不敬虔」な者とは、必ずしも社会的に悪い人ではなく、むしろ能力と自信にあふれた人である可能性もあり、行きつく先は、他人から「神」と呼ばれるような偉大な人物であるかもしれません。(もちろん、そのような人でも自分を「神」などと奢ることなく謙虚である場合もありますが)。要するに、人間的な評価とは関係なく、神から「自立」していると錯覚している人であるかどうかが問題なのです。

 

ここで注意が必要なのは、「不敬虔な者」を「無宗教な者」、「敬虔な者」を「宗教的な者」と安直に決めつけることです。福音書を読めば、イエス様を攻撃していたのは主に宗教家たちであり、それも熱心な人たちでした。パウロ自身、イエス様の弟子を強烈に迫害していたのです。神を信じ、神のために行動していると自称する者が、一番「不敬虔な者」となってしまう逆説は、ローマ書のテーマのひとつであり、後の章でも詳しく扱われます。ここでは、「働きのない者」も「不敬虔な者」も、罪人の中身を指していると理解すれば良いでしょう。そのような罪人が「罪人を義としてくださる方」を信じることが、「信仰」の具体的な姿です。義とするとは、まずは義と見なすことです。不義を義と見なすのですから、これは逆説です。信仰が一般的な理屈と異なるのは、そこに逆説があるからであり、逆説がないのなら、あえて信じる必要はなく、ただ納得すれば良いだけの話です。

 

しかし、ここには当然、危険があります。理屈に合わないことでも信じれば本当になるのなら、それこそ何でも信じれば良いことになってしまうのではないでしょうか。そうなったら、信仰は単なる迷信になってしまいます。ですから、不敬虔な者を義とする神を信じる時に、信仰だけで世界が完結するわけにはいきません。第一コリント書の有名な聖句に「いつまでも続くものは信仰と希望と愛です」というものがあります。パウロが信仰を語る時に、希望と愛も背景にあることを見逃してはなりません。不義を義とされる神は、不条理や逆説を好む神ではなく、秩序を尊ばれるお方ですが、その神が秩序を乗り越えて救いの手を差し伸べたのは、他ならぬ愛の故です。愛が不可能を可能としたのです。

 

また、この逆説は、歴史の中で具体的に展開していく出来事でもあります。神は忍耐をもって罪を見逃してこられ、ついにキリストを遣わされました。ここに逆説の信仰が可能となりましたが、ここから新しい時代が進んでいきます。すなわち、義と見なされた私たちは、見なされただけでなく、実質的に義とされる、すなわち聖なるものとされる希望の中に生きています。信仰には、神が約束を守られることを信じるという側面があります。これは、約束の実現を「信じ続ける」ということですから、それは当然、希望を持ち続けることを意味します。このあたりの消息は、後に5章で取り上げられます。ここでは、まず、信仰は逆説でありながら迷信ではないということを確認しておきましょう。この意味で「信じる」者を、神は義と認めてくださいます。

ですから今や、「主の名を呼ぶ者はだれでも救われる」のです。