礼拝メッセージ要約
2023年7月2日 「アブラハム」
ローマ書4章 第32回
1 それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。
2 もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。
3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。
4 働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
6 ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。
7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。
8 主が罪を認めない人は幸いである。」
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3章でパウロは「律法とは別の道で義とされる」ことについて、それはユダヤ人にも異邦人にも等しく与えられると述べました。これはユダヤ人信徒にとっても簡単に納得できることではないため、パウロはさらに論点を明確にしようとアブラハムのケースを取り上げます。このテーマが重要な理由は少なくとも二つあります。イエスを信じないユダヤ人に福音を伝えるためにも、信徒が確信を持つ必要があること、そして、真にユダヤ人と異邦人が一致するためにも、異邦人をユダヤ化せずに心から受け入れる必要もあることです。そのためには、ユダヤ人信徒は心からパウロの言葉を納得する必要があります。
律法とは別の道と言っても、それ自体が律法と預言者によって示されてきた道です。つまり、それはユダヤ教自体が示してきたものです。そこでパウロは、ユダヤ人にとって信仰の原点とも呼ぶべきアブラハムについて語ります。今回は各論に入る前に、アブラハムという人物について確認しておきましょう。まずは、創世記の記述を振り返ります。
彼の元の名はアブラムで、「(身分の)高い父」というような意味です。メソポタミア地方カルデラのウルという町で、父テラから生まれました。ウルはおそらく都会で、テラは裕福であったと考えられています。ヨシュア記には、テラは当時「他の神々に仕えていた」とあります。そのテラは息子アブラムやその妻サライ、孫のロトを伴い、カナンに向かって旅立ちました。使徒の働きの記述では、この旅立ちは、神がアブラムに向かって「あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す地に行け」と言われたことによるとされています。しかし、アブラムは親族と完全に離れたわけではなく、ハランという場所(ここも偶像崇拝の盛んな町)に留まり、テラはそこで死にました。その後、神は改めてアブラムに再び語られ、その地に行くなら彼とその子孫を祝福し、また地上のすべての民族は彼によって祝福されると約束されました。この約束と、後に加えられた領土(カナンの地)の約束が、いわゆるアブラハム契約であり、ユダヤ人にとってすべての原点と言ってもよいものです。今日のいわゆるパレスチナ問題にまで続いている話ですし、イスラム教でもアブラハム(イブラヒーム)が出発点とされている複雑な問題です。
アブラムは、この契約の内容を反映して、アブラハム(多くの民の父)という名が与えられました。その後も紆余曲折ありますが、ここで重要なのはアブラムの出発が重要視されている点です。伝統的な解釈では、「神はアブラムに具体的な行き先を告げずに出発を命じた。彼はその命令に従った「従順」の故に祝福が約束された」というもので、従順な行動によって彼は義と認められたと考えます。「何々をするなら祝福しよう」という、ある意味「因果応報」的に神は働かれるという、常識的な考えでしょう。アブラハムの「従順」は、この箇所だけではなく、有名な「イサクの奉献」(神がアブラハムにイサクを生贄とし捧げよと命じ、アブラハムが従った出来事。神は、従順を試しただけで、実際には生贄にするのを止められた)によっても強調されています。このような断固たる従順こそが信仰の真の姿であるという考えは、ユダヤ教に限らず、多くの宗教に共通したものであるかもしれません。パウロ自身も「信仰の従順」という言葉を使っていますから、誤解しやすい問題ではあります。
本文に戻ります。1節の訳は意訳で、直訳すると、「それでは、私たちは何と言うべきであろうか? 私たちの先祖アブラハムが肉を通して見出したものについて」というような内容です。冒頭の自問は、パウロが批判者たちに反論するにあたって用いる常套句です。批判者は、ユダヤ教の常識に従って、アブラハムはその従順によって義とされたと言うでしょう。しかし、パウロはアブラハムについても、聖書に基づいて別の理解をしています。アブラハムが肉において(人間的な基準で)何を見出したかという質問に対して、直接の答えは書いてありません。しかし、問題の要点は、「誇り」によって明らかになります。
この「誇り」については前節で取り上げました。義と認められるのが「従順な行い」によるのであれば、彼は誇ることができる、いわば信仰の勇士のような存在となれるでしょう。その意味での「信仰」は従順と変わるところがありません。しかし、そのような「誇り」は、自分自身や人に対して有効なだけで、神の前では無意味なのです。まして、人間が神に対して自慢するほど馬鹿げたことはありません。そのような無意味な誇りを抱いていること自体が、神の前に正しくない(義ではない)証拠です。アブラハムは、自身の行動についての誇りをどのように持っていたのかは明らかではありませんが、それは問題ではありません。大切なのは神の前でどのような存在であるのかということです。
パウロは「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」という、創世記15章6節をシンプルに提示し、彼が義と認められたのは信仰によると宣言します。確かにそう書いてあるのだから、それ自体を否定する人はいないでしょう。しかしそれなら、前述の「出発」や「奉献」などの行動はどうなるのでしょうか? 確かに、それらの箇所には「義とみなされた」という文章はありませんが、暗黙のうちに、義人アブラハムの証拠になっているのではないでしょうか? このような考えは、何もパウロの時代の批判者だけではなく、今日に至るまで、多くのクリスチャンさえ持っているのです。つまり、「信仰のみ」ではなく、「信仰と行い」の道です。パウロは断固としてそのような「二刀流」を否定します。アブラハムは「信じた」こと「のみ」で義とされたと主張します。これは単なる聖書解釈の違いからくるものではなく、人間存在の根底にかかわる問題です。
パウロが二刀流を否定するのは、それが「誇り」をもたらすからです。問題の核心は「誇り」なのですから、当然、二刀流でなく一刀流なら良いという話ではありません。すなわち、たとえ「信仰のみ」の一刀流だと主張しても、その「信仰」が何等かの誇りを産むのなら、その「信仰」は「行い」と変わるところがないということです。アブラハムは信仰の勇者のようでありながら、人間の弱さを露呈している箇所もあり、それが彼の魅力ともなっていますが、彼が義人と見なされたのは、そのような人間的なことと「一切」関係ないということ、アブラハムだけでなく、私たちすべてにとっても同様であること、それが福音理解の土台であることを忘れてはなりません。「信仰の勇者」とは人間の前だけで価値があるのであり、「アブラハムの場合」も、そのような人間の話ではなく、神のことばが明確に提示されています。そして、だれでも、この「アブラハム」という箇所に自分の名前を入れることができるのです。ですから今や、「主の名を呼ぶ者はだれでも救われる」のです。