礼拝メッセージ要約

2023625日 「3章後半のまとめ」

 

ローマ書3章 第31

27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。
28
人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
29
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。
30
神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。
31
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。

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3章後半の部分をまとめます。議論の中心は、だれが「義とされる」のかという点で、パウロの結論は、ユダヤ人も異邦人も区別なく「信仰の律法」によって与えられるというものでした。もちろん重要なのは、そもそも「義とされる」とは何なのかということです。改めて確認すると、神の前に正しいとされるという意味で、「神の国に入る」あるいは「神の子どもとされる」という表現と実質的に同等です。ただし、義とされるというのは「義と見做される」という含みがありますから、あくまでも正しい人という「立場に置かれた」「身分・資格を得た」のであり、その人の中身までが入れ替わったわけではありません。ですから、義とされることは救われることの出発点であり、土台でもありますが、その全てではないことに注意する必要があります。

 

人間社会では一般的に、身分とは生まれつきの環境で決まり、資格は自分の努力によって獲得します。この両者は対立的なものであると同時に、その関係について常に議論されます。ところが、福音で言うところの「義とされる」出来事は、その両者のどちらとも違います。まず「身分」という意味では、人の立場は複雑です。私たちは「本来」神の子どもという身分がありましたが、現実には罪の奴隷となっています。しかし今や、キリストによって私たちは神の子どもとしての身分を受けるのです。この観点から、「贖い」の第一の意味、すなわち「買い戻す」という側面が理解されます。罪の奴隷を神がキリストのいのちという代価によって買い戻し、私たちに神の子どもという身分を与えてくださったのです。

 

「資格」についても、ここでのポイントは、立場と同様に、人が自分の力で勝ち取ることはできず、ただ神から一方的に与えられるものであるという点です。従って、私たちには何一つ誇るものがないのですが、これを理屈だけでなく真に悟ることは容易ではありません。パウロはユダヤ人が異邦人に優るのではないという点で、誇りは取り除かれたと言っていますが、「誇り」についても再確認が必要です。誇りは、一般的に自己評価に関わります。自分自身を誇るか、他の何か、誰かを誇るか、人は何かしらを誇るものです。何も誇るものがない世界は無価値の世界に他なりません。問題は、何を誇るにせよ、そこに他人との比較が入ってくることです。何か、誰か「よりも」優れているものを誇るのです。ユダヤ人が異邦人に対して持っていたものもそうですが、それに限らず、何かの「資格」があるということは、資格を持っていない人がいることが前提です。そこに誇りが生まれるのです。ですから、誇りがないということと資格がないということは連動しています。

 

ここでのポイントは、私たちに与えられた資格は、私たちに誇りを与えるためではないということです。ユダヤ人も、選民としての資格は「与えられた」ものであることは承知していました。だからこそ「選民」なのです。問題は、彼らがその資格を他人、すなわち異邦人と比較し、選ばれたことに誇りを感じてしまったことです。そのような誇りは取り除かれなければなりませんでした。選ばれたのは徹頭徹尾「恵み」ですから、他者と比較できるようなものではないのです。このことを忘れると、義とされたということが誤った誇りを生み出します。正しい者という立場と資格を与えられたのだから、自分は他者と比較して正しいのだという大きな錯覚に陥るのです。ユダヤ人と異邦人という枠組みが提供する大切な教訓のひとつがここにあります。

 

律法の行いではなく信仰によって義とされるという時に、この誇りの問題を忘れてしまうと全てが変質してしまいます。キリスト信仰によって、モーセ律法を超えた普遍的な「出エジプト」が実現し、今やだれでもが義とされ、神の国にはいる資格が与えられたのですが、そこで律法の下にいたユダヤ人と同様の「選民意識」を持ち、キリスト信仰にある者が、それを持たない者との比較において自らを誇るのであれば、結局、律法の下にいた人々と同じ道を行くことになってしまいます。その結果、キリスト教なる宗教が、ユダヤ教を異邦人にまで拡大しただけの一宗教になってしまい、キリスト教を誇る人々が、誤った選民意識のもとに数々の過ちを犯してきたことは周知のことがらです。ここに、「信仰」を正しく理解することが必要となるのです。

 

この「信仰」とは「キリスト信仰」のことですが、その根本はキリストご自身の信仰(真実)のことです。すなわち、ご自身を無にされ、奴隷の姿を取り、十字架で罪人の頭として処刑されるまで神への誠を通されたキリストご自身の在り方のことです。そこでは、神のひとり子としての誇りは徹底的に無にされています。それが十字架の意味するところであり、その十字架につながることが私たちの「キリスト信仰」なのです。キリストがそのようなお方であるならば、私たちがどのように歩むべきなのかは自明のことでしょう。それは、自らの内に誇りを持たない歩みなのです。

 

それでは、「誇り」はどこにもないのでしょうか。パウロは別の箇所で、「誇る者は主を誇れ」と書いています。

私たちは自分ではなくキリストを誇るのです。ここまでの議論が重要なのは、キリストを誇ることとキリスト教を誇ることが決定的に違うことを理解することが必要だからです。ユダヤ教の中にいることを誇ることからキリスト教の中にいることを誇ることに移行しただけでは意味がないのです。私たちは、自分自身も、自分が所属している社会、文化も、人間に属することは一切誇らず(すなわち他との比較で優劣を説くのではなく)、ただ単純にキリストご自身、すなわち十字架につけられた神のひとり子を誇ります。私たちが、この十字架のお方から目をそらした途端、私たちは人間の業を誇るようになってしまいます。私たちの信仰は徹底した「十字架信仰」でなければなりません。

 

この十字架信仰は「律法を確立する」と言われています。前回、それはユダヤ教(そして異邦人の諸宗教)を破棄するのではなく、相対化することであり、相対化されてこそ本来の機能を果たすことができると学びました。自分自身や自分の所属するものを相対化するというのは、誇りを持たない、すなわち他への優越感を持たないことと同じです。誇らないというのは自虐するということではありません。自分を起点として他を見るのではなく、十字架のキリストを原点として、自分も他も見るということです。自分の誇りは十字架のキリストの前に無となっているならば、他を客観的に見ることが可能となります。そして、それは自分自身も客観的に見ることにもなるのです。ですから、この意味での「信仰」とは、一般的な通念とは異なり、客観的な立場に立つことを意味します。もし宗教が客観性を失い、自分中心の信念の世界に閉じこもり、他を排除するようになるならば、そのようなものは無効とされるしかありません。しかし私たちは、その様な宗教の枠組みに頼らず、自分自身にも頼らず、ただ十字架のキリストに信頼します。そして、誇りという呪縛から解放され、神の恵みの中で、自由に生きることが可能となるのです。