礼拝メッセージ要約

2023618日 「律法の確立」

 

ローマ書3章 第30

27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。
28
人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
29
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。
30
神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。
31
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。

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3章後半で、パウロは無差別(ユダヤ人、異邦人にかかわらず)に与えられる神の義について述べてきました。これを受けて、では私たちの誇りはどうなるのかと問います。もちろん、ここでの「私たち」とはユダヤ人のことです。これまで見て来たように、ユダヤ人とは民族というよりもユダヤ教徒、すなわち律法の下にある人々のことです。もし彼らと異邦人(異教徒)が同じ立場なら、彼らには誇るべきものはないのでしょうか。パウロは彼らには聖書が与えられている等、数々の利点があると言っています。しかし、神の義を受けることに関しては、それら一切の利点も関係がなくなったと言っています。彼らの持っていた「誇り」とは、もちろんユダヤ民族の優秀性を自慢しているのではなく、神に選ばれたという、恵みの特権を誇っているのですが、結果的にはユダヤ教の優越性を誇っていることになります。なぜなら、数ある宗教の中でも、それは神から直接与えられたもので、その中に留まる者は、神の民としてふさわしい歩みをすることができると考えられているからです。そのことを彼らは誇っているのですが、パウロはその誇りはすでに取り除かれたと宣言します。これは非常に大胆なことであり、彼が激しい迫害を受けるようになったのも納得できます。

 

この箇所からも明らかなように、「ローマ人への手紙」は、主にユダヤ人(イエスをメシヤと信じるユダヤ人)に向けてのものです。私たち異邦人はこのことを前提として読まないと誤解する危険があります。その上で、「ユダヤ人向き」の手紙が異邦人にとってどのような意味を持つのかを理解しないと役に立ちません。このことを意識して読んでいきます。

 

ユダヤ教(モーセ律法の世界)の優越性がなくなったというのは、ユダヤ教の意味がなくなったということではなく、「優越性」が取り除かれた、すなわち相対化されたということです。ユダヤ教が終わりキリスト教に入れ替わったという意味ではありません。この「相対化」は重要なテーマですが、その内容に入る前に、パウロはこの相対化という「転換」が起こった、すなわち「今の時代」が始まったのは、何によってなのかについて述べます。この「どういう原理によるのか」という問いに対して自分で答えています。「行いの原理」ではなく「信仰の原理」によるのです。ここで「原理」という訳語を登場しますが、これは意訳で、原語は「律法」です。ここだけ「原理」と訳すのは、「信仰の律法」という表現が分かりにくいからでしょう。しかし、ここは重要な点で、パウロは「行いの律法」と「信仰の律法」の対比をしていのです。単に「行い」と「信仰」の対比ではありません。

 

今までも見て来たように、しばしば「行い」と「信仰」に関して、行いは外面的な行動、信仰は信じる内面的な心というように誤解されます。外面と内面が一致することが大切なのは言うまでもないことですが、ここでの対比はそのような「外面」と「内面」ではありません。「律法」とはユダヤ人の生き方全体を規定している「ユダヤ教」のことですから、そのユダヤ教自体の在り方が、「行い」から「信仰」に転換したという意味なのです。「行い」のユダヤ教が「信仰」のユダヤ教になったということです。そして、その「信仰のユダヤ教」は、もはやユダヤ人だけのものではなく、異邦人も含めた全人類のものであるというのが、ここのパウロの論点です。今や、全人類が「義と認められる」、すなわち、神の前にふさわしい歩みをすることが可能となったのは、この「信仰の律法」がもたらされたからです。

 

「行いの律法(ユダヤ教)」とパウロが呼ぶのは、彼らが外面の行動だけを重視して、心をないがしろにしていたという意味ではありません。もちろん、そのような人も多くいたでしょうが、それが「ユダヤ教」の正しい姿ではないのです。そのような「見かけ倒し」にたいしての批判はたくさん旧約聖書に記録されています。では、彼らの問題はどこにあったのでしょうか。それは「行い」の意味です。それは、「心から律法の世界を生きる」ことは実質的に「徹底的に律法の規定を実行する」ことになるということです。そこに少なくとも二つの問題が生じます。一つは、それは結局ユダヤ人だけの話に終わるということです。その場合、異邦人はユダヤ人になる、すなわち「ユダヤ教徒になる」しか道がないことになってしまいます。二つ目は、神を愛し律法を実践すること自体が神に反抗することになるという逆説で、これは一番深い問題ですが、後で詳しく論じられます。

 

パウロは、ここでは第一の問題について書いています。異邦人はどうなるのかという問いに対して、パウロは「神は唯一である」という、ユダヤ教の根本原則で答えます。ユダヤ人であれば異論はありません。しかし、問題はその意味です。ユダヤ教という枠組みでは、この原則をこう捉える傾向があります。すなわち、唯一の神は、ご自身をユダヤ人に啓示され、モーセ律法によって、ユダヤ人の生き方を規定したという考え方です。ですから異邦人が「唯一の神」に帰るには、ユダヤ人になり律法の規定を守ることが必要になるというのです。言い換えると、ユダヤ教こそが、唯一の神を信仰する正しい宗教だということです。それに反して、パウロは、神が唯一であるならば、「そもそも」神は異邦人にとっても神であるという、真の唯一神の立場で答えます。ユダヤ教や他の宗教がどうであれ、神は神なのです。このことについては、「拝一神」と「唯一神」の違いについてすでに学びました。拝一神信仰とは、ただ「ひとつ」の神だけを信じるということです。「行いの律法」の世界は、実質的に異邦人を排除し、異邦人をユダヤ人化しようとする世界であり、唯一の神と言いながら、単にユダヤ人の神が本物だと主張しているだけの信仰、すなわち拝一神信仰なのです。

 

神が全人類の神であるならば、そのような「ユダヤ化信仰」に限界があるのは明らかですが、今やその限界とその克服の道が現れました。キリストによって現れた道が信仰の道ですが、それは「キリスト信仰」の道です。今まで読んで来たように、それは「キリストご自身の真実に信頼する」道であり、そこにモーセ律法の制約はありません。キリストは、モーセ律法がユダヤ教として指し示していた「神の国」自体を体現されているのですから、異邦人は「指し示すための手段」、すなわち「象徴」であるユダヤ教に制約されることなく、キリストによって直接、神の国に入る(神の義を受ける)ことができるのです。これは重要な点で、一般化すると、ユダヤ教に限らず宗教は、それ自体が神の国なのではなく、あくまでも神の国のシンボルだということです。

 

唯一神とは、神だけが絶対であり、宗教も含む人間の営みはすべて相対的だということです。それが「ユダヤ教の相対化」であり「宗教の相対化」という意味です。パウロは「信仰によって律法を無効にするのではなく確立する」と言っていますが、それは「無効」ではなく「相対化」です。自らを絶対化せず、キリストを指し示す象徴に留まるならば、律法本来の働きをしていることになります。その時に、ユダヤ教、さらには異邦人の宗教も宗教のあるべき姿となるという意味で、「確立」されるのです。