礼拝メッセージ要約
2023年6月11日 「神の忍耐」
ローマ書3章 第29回
19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
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キリストの十字架は、「今の時にご自身の義を現わすため」です。今まで学んだように、「今の時」とは、「前の時」すなわち、人々が律法の下にあり、しかも罪の支配下にある時代と対比されている「新しい時代」のことです。そして、この新しい時代とは、第一に神がご自身の義を現わす時であり、それはすなわち「イエスを信じる者を義と認める」時でもあります。この新しい時代が来るまでの時について、パウロは「今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られた」時代であったと言っています。今回はこの部分を読んでいきましょう。
まず「今までに犯されて来た罪」です。ここの「罪」は複数形ですから、「諸悪の数々」というニュアンスです。問題は「今までに犯されて来た」と訳されている部分です。これは意訳で、直訳は単純に「前に起こった」というものですが、「後になってからはっきりしてくる出来事」というニュアンスがあります。つまり、単に時系列上「以前起こった」という以上に、数々の罪が前の時代に実際行われていたけれども、その実態は今になってはっきり現れたということです。これは深い内容を含んでいます。
古い時代(旧約時代)でも、様々な罪が犯され、多くは聖書に記録されています。それどころか、旧約聖書は、神の義と、それに反する人の罪の歴史の記録の書と呼んでも良いほどです。図式化すると、「神はこう言われた」、「一部の人は従ったが多くは従わなかった」、その結果「神の裁きが下った」というパターンの連続です。その裁きは多くの場合、異邦人の攻撃によって約束の地が蹂躙されるという出来事であり、その先には「バビロン捕囚」がありました。そしてバビロン捕囚からの帰還という祝福もつかの間、ギリシャ帝国、そしてローマ帝国に支配され、パウロ以後の時代には、ついに全世界への離散、そしてホロコーストという大惨事も起こっています。このように、徹底的に自らの罪を告白している旧約の世界でありながら、パウロは、罪は今までに犯されてきたけれども、明らかではなかったと言うのです。つまり「隠れていた数々の罪」があったのです。
もちろん、旧約時代においても「隠れている罪」「自覚なしに犯された罪」の存在は前提とされています。年に一度の大贖罪日に、大祭司が至聖所に入り「罪の贖い」を行うことについて読みましたが、まさにそこで行われているのは、この隠れた罪を赦していただくことです。ここで、改めて罪と律法の関係が重要です。これについては4章、5章、7章など様々な箇所で取り上げられますが、あらかじめ要点を確認しておきます。3章でパウロは、律法は罪の自覚をもたらすと書いています。律法があろうがなかろうが、罪は罪としてありますが、律法の禁止命令によって、罪が罪として明確にされます。しかし、律法の特定の戒めを知らないか、知っていても不完全な理解しかない場合、罪を自覚しない可能性があります。それ以上に、モーセ律法といえども、すべての罪を明確に規定しているわけではないという、根本的な問題があります。この問題には少なくとも二つの側面があります。
ひとつは、今まで学んだように、法的には無罪でも人道上は悪であるという事態です。「義」には人道上の善も含まれていることも学びました。もうひとつは、悪の種類は時代とともに増えるので、律法は常に更新されなければなりませんが、それも悪とのイタチごっこになってしまいます。核兵器、遺伝子操作、AIの問題など、モーセ律法は全く想定していないのは当然のことです。そのため、律法の新しい解釈、適用が必要となりますが、見解は容易に一致しないのは周知のことがらです。要するに、罪には膨大なグレーゾーンが存在しているということです。このような状況ですから、神の前に罪とされることと人が罪と呼ぶことは、必ずしも一致しないのです。
このように、律法自体が「隠れた罪」を想定し、その贖いのための儀式も用意しています。ところが、パウロは、「今や、それらの隠れた罪」が、罪として明らかになったと言っています。そして、今まで明らかでなかったのは、神がご自身の「忍耐」(先送り)により、それらの罪を「見逃して」(裁きを執行猶予して)こられたからなのです。このことから、次の二つの真理が明らかになります。第一の真理は、律法によっては明らかにならなかった罪が、キリストによって明らかになったということです。逆に言えば、律法ではなくキリストによって善が明らかになったということで、このことは福音書に記されたパリサイ人との対立を読むとわかります。ヨハネ風に言えば、キリストという光によって闇がはっきりしたということです。また、聖霊が罪を認めさせるとも書いています。キリストの十字架と復活を通し、聖霊が与えられて初めて罪が罪として明らかになったのです。この意味での罪がどのようなものなのかは7章で取り上げられます。
第二の真理は、このような「隠れた罪」の裁きを神は今まで猶予されてきた、言い換えれば、今や猶予の期間は終了したということです。猶予の終了とは、すなわち神の裁きが行われたことにより、神の義が公けにされたということです。「義」の「正義」という側面で言えば、当然、悪が裁かれなければなりませんが、その裁きが十字架において行われたというのが福音です。このことも、様々な箇所で語られていますが、今回の箇所では宣言されているだけなので、少し確認しておきます。福音によれば、キリストの十字架において、この世と、この世を支配下においているサタンが裁かれました。この世について言えば、無実の神の子を殺すことにより、すべての罪にまさる最悪の罪が犯され、人類の有罪が確定しました。そして、それを促したサタンも同様に滅ぼされることになりました。キリストは「神の子」ですが、その「神」としての側面に対して、人類とサタンが罪を犯したのです。
しかし、ここから、人類とサタンの道は分離します。サタンについては裁きがあるのみですが、人類には救いの道が開かれたからです。すなわち、人の子としてのキリスト、すなわち、人類の代表としてのキリストは、その死において、人の受けるべき裁きをご自身で受けられたのです。ここに裁きは完成し、神の「正義」が現れました。しかし、それは単なる正義の執行ではありません。むしろ、「御子をお与えになるほどに世を愛された」神の愛の現れてあり、正義以上の「義」、すなわち神の恵みの道が開かれたのです。ですから今や、「主の名を呼ぶ者はだれでも救われるのです」。