礼拝メッセージ要約
2023年6月4日 「なだめの供え物について」
ローマ書3章 第28回
19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
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引き続き、この箇所に使われているユダヤ教用語を学んでいきます。
今回は「贖い」と共に使われている「なだめの供え物」についてです。前回「贖い」という言葉が持つ二つの意味を見ました。「買い戻す」(解放)と「罪を洗いきよめる」という意味です。後者の内容を受けて25節で、この「贖い」についてパウロは説明を加えています。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました」という部分です。ここを注意深く読んでいきましょう。
まず、神はキリストをどのような存在として示されたかのか、それは「なだめの供えもの」です。この「なだめの供え物」はユダヤ的な用語ですが、原語は「ヒラステーリオン」です。この言葉は、エルサレム神殿の至聖所にある契約の箱のふた(贖いのふた)を指します。レビ記16章は、イスラエルのすべての罪が贖われる年に一度の神聖な日である大贖罪日について記しています。その中心は、大祭司が至聖所に入り、贖いのふたに生贄の血を注ぐことです。この贖いのふたは、その上に神ご自身が臨在される最も神聖な場所とされます。「贖いのふた」は「なだめの座」と訳されますが、生贄により神の怒りがなだめられ、罪が赦されるというニュアンスが現されています。
「生贄によって神の怒りがなだめられる」という観念はユダヤに限らず多くの宗教に見られますが、現代人には過去の野蛮な風習のように思われることが多いでしょう。「生贄」については、様々なものの犠牲によって社会が成り立っている現実について見ました。また「神の怒り」という擬人表現については、感情のコントロールを失うという人間的な弱点というよりも、「正義の執行」という側面の表現であることも見てきました。この「犠牲」と「正義」の組み合わせは現代でも変わることのないテーマです。すなわち、罪とは他者に犠牲を強いるということで、正義を執行するには、その罪を償わせなければなりません。しかし、人の犯す罪は決して全て償うことなどできません。しかも、自分では気づいていない罪も無数にあります。この現実を「お互い様だから当然」と考えるか、何らかの『懺悔』が必要」と考えるかによって、その社会の性格が決まります。ユダヤはもちろん、伝統的には日本も後者であり、そこに宗教性が現われるのです。ユダヤでは、その中の最も神聖な時が大贖罪日であり、その場所が「贖いのふた」(あわれみの座)なのです。
このように、「贖いのふた」は贖罪の場所であり、神の臨在する場所でもあります。パウロは、そのような場所が差し示す「真のあわれみの座」として、キリストが公に示されたと書いています。ところが、時代と共に、「贖いのふた」という言葉が、「なだめの供えもの」と訳されるようになりました。それは、「血による」という表現に引っ張られて、キリストが「生贄」であるという意味に取られるからかもしれません。生贄という表現はともかく、キリストの血が、今や動物の血に代わって、永遠の贖罪を実現されたというのは事実ですから、そのように読んでも問題はないでしょう。ある人たちは、血がキリストのものである以上、その血が注がれる先の「あがないの蓋」もキリストなのはおかしいと言いますが、それは、この深い象徴的表現を人間の理屈で矮小化するものでしょう。あがないの蓋で行われている事柄の全体がキリストを指し示しているということです。
「贖いのふた」すなわち神の臨在の場所は、神の側から備えられているものです。反対に、贖いのための血は、人間の側から注がれるものです。この両者がつながる時に贖いは実現します。キリストが「贖いのふた」であるというのは、彼の神としての側面を表しています。キリストは神の臨在なのです。同時に、キリストが血を流されたのは、彼が人であり、人類を代表して罪の贖いのためにいのちを注ぎだされた行為です。ですから、贖いのふたであり供え物であるのは、キリストの神性と人性を表わしているのです。この「神性」と「人性」という、絶対的に矛盾するものがキリストにおいて同一であり、それによってのみ、真の「贖罪」が実現するということこそ福音に他なりません。これは奥義ですが、今や公に現れたのです。
パウロはこの箇所で、「その血による」の後に「信仰による」という言葉を挿入しています。直訳すると「血においての信仰(真実)を通して」となり、神がお示しになられたということを修飾しています。ですから、これは、キリストの血に信じる私たちの信仰というよりも、神の働きを指しているので、キリストの十字架において現れた神の真実と解釈すべきでしょう。キリストの十字架のうちに神の真実があり、そこで究極の贖罪が行われたのです。これはもちろん人類の救いのためですが、それ以上に「神の義をあらわす」ための出来事です。十字架と復活は、「神の神による神のための」ものなのです。
このことにたいして反感をいだく人もいるでしょう。「なんだ、神は人のためではなく、結局自分自身のために働いているのか」と。要するに自作自演ではないか、人はそのための駒にすぎないのかという反感です。しかしそれは、神を単なる超人的な存在、しかも自分の栄誉しか考えない存在として考えるからです。この議論のポイントは、神がご自身と人類のどちらを優先するのかということではありません。もし、優先順位の話であれば、神の方が人より上なのだから優先されるのは当然だという原則論と、「親なら子を優先するはずだ」という人情論の対立のようになってしまいます。そうではなく、ローマ書のテーマはあくまでも「救い」です。私たちが救われるのは何を根拠としてなのかということなのです。
神が人を救う理由が、「その人がかわいそうだから」というものであれば、その救いの根拠は「かわいそうな人」という人の側にあることになります。かわいそうな人を救うのは人の道ですが、それでは「かわいそうでない人」は救わないことになります。まして「敵」を救うなどしません。神は、人が「かわいそう」どころか、神を無視し、神に敵対する「真の罪人」を救うのです。これは5章で扱われます。要するに、神は人の状態と関係なく救うのです。神が神ご自身のために働かれるというのはそういう意味です。救いの根拠が人ではなく神にあるということこそが最高の福音であり、私たちにとっての救いです。イエスとは「神が救い」という意味であり、「主イエスの名を呼ぶ者はだれでも救われる」のです。