礼拝メッセージ要約

2023528日 「贖いについて」

 

ローマ書3章 第27

19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 

20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 

22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 

23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 

24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 

25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 

26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

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前回述べたように、「無差別に与えられる神」を説明しているのが、23節から26節までの長大な文で、原語では単一の非常に複雑な文です。(翻訳では、やむなくいくつかの文に分けています)。異邦人にとっては、ユダヤ人から差別(区別)されないということは、受け入れやすいでしょうが、ユダヤ人にとってはそうではありません。そのこともあってか、「すべての人」を対象とした話でありながらパウロは主にユダヤ人に向かって語っています。そこで、24節と25節にユダヤ教の用語が登場します。(この部分は、前の文から文法的につながっておらず、いわば挿入されていて、当時すでによく知られていたユダヤ的表現を引用したのではないかとも言われています)。

 

その用語とは「贖い」と「なだめの供え物」です。あまり馴染みのない用語ですが重要なので確認しましょう。まず「贖い」です。日本語で「贖う」とは、「金品を差し出して罪をつぐなう」という意味です。ちなみに「購う(あがなう)」とは単に買い求めるということです。ユダヤにも二つの「あがない」があります。ひとつは、「買い戻す」という言葉で、捕虜や奴隷を身代金の支払いによって取り戻す、あるいは他人に渡った土地など財産を買い戻すという意味です。買い戻すものが人であれば、「解放」ということになります。買い戻す側(一般的に親権者)は「贖う者」と呼ばれ、聖書では、神(ヤハウェ)が「イスラエルを贖う者」(イザヤ4114節他)として預言書などに登場します。もうひとつの意味は、罪の汚れを血によって洗いきよめるという祭儀的な内容(レビ記16章など)で、こちらの方は「贖罪」と記されることが多いです。

 

この二つの「贖い」は別の概念で、へブル語や、ギリシャ語訳の旧約聖書でもそれぞれ別の言葉になっています。ちなみに英語では前者は「redemption」、後者は「atonement」です。日本語訳では区別していないので分かりにくい所が残念です。(前者は「解放」と訳した方が良いかもしれません)。ところが、新約においてこの二つが合体します。すなわち、キリストの死と復活により、この両者が実現したのです。罪の支配下で奴隷となっていた人々を、キリストのいのちという代価によって買い戻し、神の民とされるという「解放」としての意味と、キリストが十字架で流された血によって罪が洗いきよめられるという祭儀的な意味とがひとつとなったのです。これは画期的なことで、ここに「贖い」は、実質的に「救い」と同義になりました。逆に言うと、よく使われる「救い」という言葉を理解するには、この「贖い」に含まれる二つの意味を知る必要があるということです。

 

「解放」(実質的に奴隷解放)」というテーマは、これまでも繰り返し登場してきました。ユダヤの民が、奴隷となっていたエジプトから解放された(出エジプト)は、神の解放の業の第一章であり、それは、来るべき全人類の大解放への予兆でした。そして、それがついに実現したというのが福音のメッセージです。この「大解放」がユダヤ人に限らず全人類に対するものであることは大前提ですから、「無差別の救い」の説明になっていることが分かります。ですから私たち異邦人も、「救われた」というのは、第一にこの「大解放」に与ったのだという意味なのです。出エジプトの時と同様、この「解放」は神の主権によるものであり、それに与るために個人の資質や努力はもちろん善悪さえ問われません。すなわち「恵み」によって救われるのです。

 

この第一の意味と共に第二の意味、すなわち祭儀的な意味での「贖罪」が重要となります。こちらの「贖い」は、いわゆる「血によって罪をきよめる」ことですから、前者の解放に対して「きよめ」と呼ぶことができるでしょう。奴隷が解放されたのは神の業によることですが、解放されたからといって彼らの罪がきよめられたわけではありません。すなわち、外側は奴隷ではなくなっても、それだけでは内側は罪の支配にあるのです。出エジプトした民が約束の地に入るまでの歴史を見れば明らかでしょう。この間、彼らは事あるごとに罪がきよめられなければなりませんでした。そのために律法にはこの「きよめ」の手段が用意されていました。ユダヤ人に限らず、この「きよめ」という宗教的行為は多くの民族にみられるもので、およそ思いあがった人間万能主義の現代人でもない限り、普遍的なものと言っても良いでしょう。

 

その多くは動物の生贄をいう形をとってきましたが、現代ではそれは野蛮なものと見做されます。動物愛護の観点から、医学のための動物実験も禁止しようという動きさえあります。人間の福祉のために動物を犠牲にするべきではないという主張にも一理はあるかもしれませんが、残念ながら人間は何らかの犠牲抜きに存続することができないという、厳粛な現実も直視しなければなりません。(もちろん他者の犠牲を当然視するようなことは論外です)。日常生活でも様々な犠牲がある上に、宗教的な犠牲までなされるのは、この現実を忘れず、神の前にへりくだるために他なりません。この「罪深さの自覚」が「きよめ」への望みを呼び起こします。人間と他の動物との決定的な違いがここにあります。

 

この「きよめ」のための犠牲や修行は様々な形があり、ユダヤでも同様ですが、問題はそれがいずれも「暫定的なもの」であることです。すなわち、それらは何度も繰り返される必要があり、きよさを求めれば求めるほど人は罪深さをより深く自覚するという構図があります。というより、きよめ自体が罪の自覚を促すためにあるとさえ言えるのです。パウロが律法によって罪の意識が生じるという通りです。そして、その「暫定的なきよめ」は逆に「永遠のきよめ」を指し示してもいます。これについては、地上のきよめを司る人間の祭司と対比して、天でのきよめを司る天の大祭司であるキリストというテーマがヘブライ書で扱われています。パウロは「天の大祭司」という言葉は使っていませんが、「キリストの血」という言葉によって、このことに続く節で言及しています。今回は、その詳細に入る前に、キリストによるきよめ(贖い)が暫定的でも限定的でもなく普遍的なものであるということ、そして、この「贖い」が価なしに与えられるということがポイントです。犠牲(生贄)によってきよめられるというのは、人は自力で自分をきよめることはできないということであり、それは与えられなければならないということです。そして、今やその究極のきよめが与えられました。そして、それは究極の出エジプトに伴うものであり、ここに神の恵みによる救いがあるのです。