礼拝メッセージ要約

2023521日 「神からの栄誉」

 

ローマ書3章 第26

19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 

20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 

22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 

23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 

24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 

25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 

26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

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ここから、「信仰による神の義」という主題に入ります。すでに、117節で「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです」と宣言されているとおり、福音の土台とも言える部分です。「義」とは、単なる規則通りの行動以上のもので、それは「施し」をも含む「人道」でもあることを学びました。ですから、「神の義」は、神の道とも言うべきもので、神の正義とは、神の施し、すなわち恵みを含むもので、福音とはまさにその恵みだということです。この神の義が、だれに与えられるのかというのが今回の箇所で語られています。

 

22節にある通り、それは「すべての信じる者」に与えられ、そこには、ユダヤ人と異邦人という差別(そして、その他のいかなる差別)もないというのが、自身がユダヤ人であるパウロの宣言です。(ユダヤ人とはユダヤ教徒、すなわち律法の下にある者のこと)。つまり、神の義は律法とは関係なく与えられるということで、これは、当然、一般のユダヤ教徒にとって承服できるような話ではありません。「神の義」が神の正しさであるならば、神がアブラハムの子孫に与えられた約束を守ることが当然であり、異邦人とは違う扱いがなされるべきではないかという抗議が起こります。これについては次の4章で論じられます。まして、義が施し(あわれみ)であるならば、ご自身の民を格別に扱ってくださるはずではないかという、数々のことばが旧約で記されているあるとおり、自身のアイデンティティにも関わる、理屈以上の問題でもあるでしょう。しかしそれでもパウロは「差別がない」と言います。因みに「差別」というと主観的ですが、ここでは単に「区別・違い」という意味で、要するに「同じ」ということです。

 

この「無差別」という事態を説明する文が23節から26節までの長大な文で、原語では単一の非常に複雑な文です。(翻訳では、やむなくいくつかの文に分けています)。まず出発点は、すべての人(ユダヤ人も異邦人も)が罪を犯したということで、この点についてここまで語られてきました。ここで「罪を犯した」というのは、「今も皆が悪いことをしている」という意味ではなく、全人類が(堕落により)罪の支配下に落ちたという意味です。以前「原罪」についての議論で触れた点です。そしてその結果が「神からの栄誉を受けることができない」ということです。これも意訳で、新改訳では別訳に「神の栄光に達することができず」と記されているように、訳し方に違いが見られます。このようになるのは、この何気ない一文が難しい内容を含んでいるからです。

 

別訳の方が直訳に近いのですが、「達することができない」というのは、もともと「遅刻する」というような内容の言葉で、そこから「欠如する」(つまり、必要条件を満たさない)という意味に用いられます。そこで、直訳すると「神の栄光が欠如している」となります。しかしここで問題が起こります。それは「神の栄光」をどう理解するのかという問題です。一般に神の栄光と言えば、神の偉大さや権威など、神に固有の特質を指しています。だからこそ、神に栄光あれという時、それは、人にではなく、ただ神にのみ賛美が捧げられることを意味します。ならば、人には神の栄光などあるはずもなく、むしろ、あってはならないのです。それが、「神は聖である」という言葉の意味であり、この神聖を人は犯すことが許されません。この、神と人との絶対的な区別は、聖書の大原則であり、それを崩す試みが偶像崇拝です。しかし聖書は、同時に一見それとは正反対のことも述べます。それは、「神はご自身のかたちに似せて人を造られた」という事実です。

 

もちろん、神が創造主であり人が被造物であるという絶対的な区別は不変です。よく「神など人が想像して作ったのだ」という人がいますが、それは、その人がそのように神という言葉を定義しただけのことで、聖書は、人(そして万物)を創造されたばかりでなく、死者をも生かすことができるお方を神と呼んでいるのです。同時に、人は神のかたちに似せて造られている、すなわち、ある意味では神に似ているというのが聖書のメッセージです。この「絶対的に異なるのに似ている」という事態をどう捉えるべきかについて、古来いろいろなことが言われてきました。最も単純かつ誤ったものは、「人間とは肉体(獣)をまとった限定的な神である」という説です。いわば、肉体に拘束されている神であるということで、いわゆるグノーシス主義として広く存在し、またキリスト教会を内側から脅かしたものとして有名です。より一般的な説明は「理性」「思考力」「創造力」「道徳観念」など、人間に特徴的な部分が、そもそも神に属していながら、神から限定的なかたちで与えられているのだと言うものです。この場合、これらの特徴は、被造物としての制限がある上に、罪によって歪んでいるが、それでも神の特性に似ているのだということになります。そうすると、人間はそのような特徴を向上させることにとって、より神に似てくるということになります。いわゆる人類の進化という発想で、興味深いものではありますが、パウロの話からはかけ離れていると言わざるを得ません。

 

「神の栄光」が何であれ、人はそれを失っている以上、人間自身をいくら観察しても見い出せるはずはありません。とすれば、それは二つの側面から考えざるを得ません。一つは、神と人との関係という側面です。つまり、人は神の栄光に与るように造られているにもかかわらず、罪によってそれが出来なくなっているという面です。「神からの栄誉を受けることができず」という意訳は、そのような観点からされたものでしょう。神の栄光はあくまでも神だけのものでありつつ、モーセがかつて神と面した後、神の栄光の反映のごとく顔が輝いていたように、いやそれ以上に神の栄光を反映する者とされるのです。それは、キリストによって罪が取り除かれ、キリストとつながることによって可能となります。

 

もう一つの側面は、未来への希望です。これは8章で語られることになりますが、そこでは「神の子たちの栄光」という表現があります。「神のかたち」を神と人との交わりという観点から捉えるならば、神の栄光と神の子たちの栄光は本来絶対的に異なるものでありながら、ある意味ではつながってくるのです。ただし、それは将来のことで、今のところ希望という形で存在していますから、先走って神と人との区別を曖昧にすることは許されません。ヨハネが「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」(第一ヨハネの手紙32節)と書いてあるとおりです。