礼拝メッセージ要約

2023514日 「キリストの信」

 

ローマ書3章 第25

19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 

20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 

22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 

23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 

24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 

25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 

26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

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パウロはここから新しい時代(アイオーン)の実質について語ります。ただし、その前提として重要な一文があります。律法の行いではだれひとり神の前で義と認められないということと、律法は罪の意識を生じさせるということです。この重大なテーマについては、後に7章で詳しく論じられますが、ここでは単に宣言されています。そして、新しい時代の有様についてすぐに語り始めます。聖書によって証しされている律法とは別の義についてです。

 

それは、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義〜」であり、これがまさにローマ書の主要テーマです。福音の核心と言っても良いものですから、注意深く読んでいきましょう。原文は直訳すると「すべての信じる者への、キリスト・イエスの信(信仰)による神の義」のようになります。新改訳聖書では、「キリストを信じる信仰」と訳していますが、原文は単に「キリスト(属格)の信仰」です。この属格という表現については、すでに1章に登場する「信仰の従順」のところで触れました。属格ですから、通常は「キリストに属する信仰」という意味です。ただし、場合によっては「キリストへの信仰」のように使うこともできるという主張があり、新改訳ではその立場で、「キリストへの私たちの信仰」と訳しています。この「キリストの信仰」をキリストが持つ信仰と読むのか、私たちのキリストへの信仰と読むのかについては、古来論争が続いていて決着していません。前者の場合、「キリストの信仰」とは、イエス様の神に対する完全な信仰、あるいは真実という意味になり、救いの土台という意味ではふさわしいように思えます。「十字架の死に至るまで(神に)忠実であられたので、神はキリストを高く上げられた」と他の箇所であるように、キリストの十字架と復活によって完成された生涯こそが、私たちの救いの基盤だからです。

 

それでも、「キリストへの私たちの信仰」という解釈があるのは、「律法を行うこと」との対比を中心にして、「私たちの行い」対「私たちの信仰」のように考えるからでしょう。それはそうなのですが、「律法を行うこと」と訳されている言葉も、「律法の(属格)行い」ですから、「律法を行うこと」とも、「律法(自体)の働き」とも読めるので、結局、この「属格」の解釈はどちらか一方に決めることができないのです。となれば、あえてどちらかを選ぶのではなく、両方の内容を含ませれば良いということになります。そこで、「キリストの信仰」を単に「キリスト信仰」あるいは「キリストの信」と訳すこともできます。そして、その実質は「キリストご自身の信」がご自身の所に留まることなく、人々に注がれていて、その人々とはすなわち、「信じる人々」のことであるということです。

 

整理すると、対比は「律法の行い」と「キリストの信仰」です。律法を単なる規則と考えると、律法の行いとは律法の命令を守ろうとする人の行動という意味になり、普通はそう思われているかもしれません。しかし、後に8章で「律法には出来なくなっていること」という表現があるように、律法は単なる法律ではなく、ユダヤ人の生活そのものを成立させている「ユダヤ教」全体を指していて、その「ユダヤ教」に出来ることと出来ないことがあるというのがパウロの論点です。そして、ユダヤ教は単なる戒律だけでできているのではなく、その中には、個人の敬虔な生き方や、社会の在り方など、人間経験のあらゆる要素があることを忘れてはなりません。そして、それは非常に優れたものであるというのが前提です。ですから、「律法の行い」とは、ユダヤ教の働き全体のことであり、当然その中には人が実践すべき事柄も含まれています。しかし、その戒律も、あくまで「出エジプト」という神の行動が土台になっているのですから、全体としては、「ユダヤ教における神の行動と人の応答」として捉えるべきなのです。

 

それに対比されているのが「キリストの信仰」です。ですから、やはり出発点は人ではなく神です。神がキリストを派遣し、キリストは死に至るまで忠実(信)でした。そのためにキリストに全ての名にまさる名が与えられたのです。これが、昔の物理的な出エジプトではない、真の(そしてすべての人への)出エジプトです。それだけでなく、キリストは天において私たちのために祈っておられ、キリストの信(まこと)は変わることがありません。これは8章で論じられます。そのようなキリストの信がユダヤ人だけでなく異邦人にも分け隔てなく注がれていて、それに対して信(まこと)をもって応答する人々が起こされているのです。ここで、応答するというのは、新しい戒律を守るというような意味に解するべきではありません。この点についてパウロは、次の4章で詳しく論じていますが、ここでは、出エジプトとの対比という観点から確認しておきましょう。

 

出エジプトでユダヤ人が救出されたのは、戒律を守ったからではなく、モーセの言葉を信じてある一つの行動をとったからです。すなわち、羊の血が鴨居と門柱に塗られた家の中に退避していた者だけが、神のさばきを免れたという、「過ぎこし」に与ったからです。そこに「善人」や「悪人」の区別はなく、まさに「すべての(モーセを)信じる者」に与えられたのです。そして今や、真の(永遠の)出エジプトが現れました。動物の犠牲ではなく、神のひとり子の十字架(すなわちキリストの信)が実現し、それによって守られる者(キリストを信じる者)は救われるのです。当然そこに「善人」「悪人」の区別はありませんし、今やユダヤ人と異邦人の区別はありません。まさに「すべての信じる人に与えられ、何の差別もない」のです。

 

ですから、対比は「行動」と「信仰(何かを信じていること)」にあるのではなく、救いの土台は何なのかという点にあります。モーセを信じて動物の血による贖罪に頼るのか、キリストを信じてキリストの血に頼るのかという対比です。この点については5章でも触れられます。もちろん、福音はこの対比だけを語っているのではありません。それ以上の内容がありますが、それはローマ書でこれから論じられていきます。ここでは、行いと信仰を外面的な行動と心の状態の対比ではなく、ユダヤ教全体とキリスト(キリスト教ではない)の対比であることを確認しておきましょう。「キリスト教ではない」というのは、キリスト教の教えや儀式を守ることではなくキリストに身を委ねるという意味です。「主の名を呼ぶ者はだれでも救われる」のです。