礼拝メッセージ要約
2023年5月7日 「しかし、今は」
ローマ書3章 第24回
19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
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ここまでを振り返ります。ローマ書の1章前半は、挨拶を含めた序章であり、すでに数々のキーワードが提示されています。1章後半は、主に異邦人世界の罪、2章では、それをさばくユダヤ人世界の罪が提示され、罪においてユダヤ人と異邦人が同列であると共に、両者に共通の救いの基盤が提示されます。3章前半では、ユダヤ人の断罪に関連するパウロに対する非難が取り扱われています。これはいわば挿入されたテーマで、後で詳しくとりあげられます。ここまでが、序章に続く第1部と見ることができます。今回の箇所からは第3章が始まりますが、19節と20節は第1部と第2部の接続部です。まず、この部分を読みます。
まず「律法はユダヤ人に対してのものだ」とあります。これは当然のことなのですが、なぜかキリスト教世界ではしばしば忘れられます。すなわち、異邦人に対してもモーセ律法を適用しようとする人たちが絶えないのです。そのような「異邦人のユダヤ化主義」はパウロの時代から今日にいたるまでありますから注意が必要です。これも、ローマ書の重要なテーマのひとつですが、詳細は12章などで取り上げます。ただ、パウロがこの箇所で言っているのは、ユダヤ人の罪も神の正当性も皆「律法(聖書)」すなわちユダヤ人の書が言っていることであり、パウロの創作ではないということでしょう。また、パウロがローマ書で語りかけているのが、ローマにいるユダヤ人信徒が中心であるという点も忘れないようにしましょう。
問題はその続き、「全世界が神のさばきに服すため」との繋がりです。律法の外にある異邦人世界も神のさばきの下にあるというのは、この箇所からだけでは理解できませんが、ここまでのユダヤ人と異邦人の同等性の議論が反映されていると思われます。ここではその話には進まず、20節に重要な宣言が行われます。「律法の行いでは神の前で義と認められない」と「律法によっては罪の意識が生じる」の二つの宣言です。後者については7章で論じられ、ここでは、「義と認められない」という点に焦点が当てられます。そして、この宣言をもって、ついにローマ書は第2部に突入します。21節冒頭の「しかし、今は」という言葉が、この大転換を表します。
この言葉は、当時しばしば使われていた表現で、それは二つの時代(アイオーン)の転換を意味しています。いわゆる黙示思想と呼ばれる世界観で、新約聖書の一部にも見られます。「今までの古い時代では、悪人が支配し義人は苦しめられる。状況はどんどん悪化し、最後には宇宙的な
破局を迎える。そこに神が介入し、悪人を滅ぼし、義人が支配する新しい時代が始まる」というものです。その新しい時代の開始が「しかし、今は」です。パウロ自身は黙示思想家ではありませんが、この思想の枠組みを利用して語っています。すなわち、福音とは、新しい時代(アイオーン)の到来を告げているのだということです。
しかし、パウロの告げる新しい時代は、一般の黙示思想のそれとは随分異なります。パウロがこの表現を使ったもう一つの箇所(第一コリント15章20節)にはこうあります。「 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」。パウロの言う「新しい時代」は遠い将来ではなく、キリストの復活と共に始まったのです。パウロは続けて、キリストは初穂として復活されたと言います。それは、私たちもキリストにあって復活にあずかるためです。ですから、黙示思想とは違い、「キリストの復活により、すでに新しい時代が始まった」という事実と、「私たちの復活という新しい時代の完成」という希望という二つの側面があるということです。これが、「すでに、未だ」という事態です。黙示思想にある、「天変地異による旧世界の破局」ではなく、キリストの復活が新時代の始まりであるということは、どんなに強調しても強調しすぎることはありません。同時に、パウロの議論の多くは、この「新時代が始まった」という前提からなされていることも重要な点です。
もちろん、天変地異や戦争、疫病、飢饉といった問題が重大であることは論を待ちません。さらに、核兵器、AIや遺伝子工学の進展など、人類存亡に関わる問題は増える一方です。文字通り「破局」があり得る状況の中で、私たちは責任ある行動が求められます。ある人々は、破局によって新時代が来るのだから、破局が早まることを求めようなどと言いますが、そのような発想は、前節で読んだ「善を現わすために悪をしようではないか」と同じ路線であり危険なものです。そのような「黙示思想」的な集団が先鋭化してカルトとなるケースを私たちは知っています。そればかりでなく、新しい時代の本質が復活のキリストであるにもかかわらず、それよりも天変地異などの世界情勢とその後の世界という外的な事柄に焦点が移ってしまうことが問題です。そうなってしまうのは、キリストの復活が、ただ死人が生き返ったレベルの事に矮小化されてしまい、世界情勢のような大きな話に埋もれてしまうからでしょう。
ローマ書でパウロは、コリント書のような復活についての議論はしていませんが、それは当然の前提として書いています。ローマ書冒頭で、「復活により神の御子として示された」とキリストについて宣言しているとおりです。そして、それが新しい時代の開始を告げているのですから、その新しい時代がいかに「新しいか」を伝えることがローマ書執筆の目的なのです。「破局的終末の先の新世界」なら、その新しさは目に見えるかもしれませんが、それにも勝る新しさが、すでにここに訪れているということを私たちは知る必要があります。その新しさこそ、「律法とは別に現れた神の義」であり、ここからパウロはこの「神の義」という中心テーマを掘り下げることになります。
私たちはまず出発点としてこのことを確認しましょう。古い時代とは律法の下にあり神の義が現われていない時代のことであり、新しい時代とはキリストの復活により律法とは別に神の義が現われた時代であるという出発点です。これが、単なる宗教の立場の違い、例えば、ユダヤ教とキリスト教の違いとか、戒律が厳しいか不要かというような議論に矮小化されてはなりません。むしろ人間や社会の在り方そのものの話であり、その大転換がすでに始まっているという知らせなのです。そして、この二つの世界を繋ぐのは、律法とは別に示された神の義は律法と預言者によって証しされていたという事実です。すなわち、神のことば自体がそれを成立させているということです。