礼拝メッセージ要約
2023年4月30日 「原罪について」
ローマ書3章 第23回
9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
15 「彼らの足は血を流すのに速く、
16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
17 また、彼らは平和の道を知らない。」
18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
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パウロは、神のことばを信託されているというユダヤ人の立場を認めつつ、結局、罪の下にあるという点では、ユダヤ人も異邦人も変わることがないと語ります。10節から18節まで、罪人の惨状が列挙されていますが、これらは、詩篇やイザヤ書の複数の箇所から、自由に引用されています。ちなみに、このような描写はパウロのオリジナルではなく、当時の黙示思想の流れの中では多くされていていることが、死海文書からも確認されています。この「惨状」を一言でまとめると、「義人は一人もいない」、すなわち「すべての人は罪人である」ということになります。このことを、キリスト教では「原罪」という言葉を使って説明します。
この「原罪」は、しばしば議論にあがるので、ここで整理する必要があります。「原罪」という言葉が聖書にあるわけではなく、キリスト教(の大半)の教義のひとつとして登場します。人類に巣くっている罪の普遍性をアダムの最初の罪(堕落)との関連から説明しようとするものです。因みに、原罪という考えはユダヤ教の主流やイスラム教にはありませんが、前述のように、イエス様やパウロの時代の黙示思想には、「義人はいない」という考えはありました。しかし、ユダヤ教主流(律法主義)では、アダムの堕落も、人間が持つ善と悪の二面性を表わす出来事の一例として読むだけで、「人は善悪両面あるからこそ、律法により善を行うように教育されるべきだ」と考えられているように思われます。これは、ユダヤ云々というよりも、常識的な考えでしょう。
結局、問題は「罪」をどうとらえるのかということです。罪を「根源的な問題」と言い換えるなら、仏教でもその問題の深刻さを突き詰めると、親鸞のような「絶対他力」に頼る立場が出てきますが、今日一般的には、精神修養の手段として座禅を組む程度の人が多いでしょう。人類の抱えている問題がその程度だと言うのならそれまでのことです。出発点は現状認識であり、いかにそれがリアルかが問題です。私たちはあくまでも、人類の、いやそもそも自分自身の深刻な状況から出発するのです。
その上で「原罪」についての解釈ですが、実は、その説明は一様ではなく、歴史的に振り返ると時代や神学者によって様々です。ここではその詳細に立ち入りませんが、概略だけを押さえておきましょう。出発点はもちろんパウロです。3章の「義人はいない」というところと、5章に登場するアダムとキリストの対比が土台です。もっとも、3章はユダヤ人も異邦人も罪において同等であるというのが主眼です。また5章は難解な箇所で、改めてそこで取り上げます。
いずれにしても、罪の重大性については当然認識されていましたが、「原罪」という論が表立って扱われるようになったのは、数世紀後のアウグスチヌスの時代からで、アダムが犯した罪(第一の原罪)が子孫に「遺伝」し、アダムの子孫である全ての人が、この「原罪」を持って生まれてくると考えられるようになりました。当時の考えは、罪を欲情ととらえ、欲情を伴う生殖行為によって罪が子に受け継がれるという、やや強引な説でした。ただ、禁欲主義的な傾向の強い宗教には合致しています。この説は後に退けられ、後の議論として、罪を欲情ではなく意志の問題としてとらえるようになりました。すなわち、罪とは神を拒絶する意志であり、アダムは堕落によって神に従う意志を喪失してしまったと考えます。そして、そのアダムに似せて生まれてくる人も皆、神に従う意志を持っていないというのです。これが所謂「全的堕落」と呼ばれるものです。そのような絶望的状況にある人間が神の方に向くのは、ただ神の恩寵によるということになります。
神の恩寵が中心になるのは正しいですが、どんなタイプの原罪説でも問題になるのが、個人の責任ということです。罪が遺伝的に不可避なら、個人に罪の責任をとらせることはできないという主張が必ず出るからです。このことも5章でアダムとキリストの対比が語られるところで取り上げることになります。今は、もう少し「原罪説」について考えてみましょう。まず前述の罪を欲情と捉える節です。当時の説自体は強引で非科学的に見えますが、視点を変えると興味深い内容もあります。欲情が罪であるという考え方が否定されたのは、欲情の方向が間違った場合が罪だからです。欲情をどう使うのかという意志の問題だということです。それはそうなのですが、現代科学や心理学によると、人間の欲情どころか意志決定さえも、その多くが目に見えない部分で決定されているようなのです。霊魂が肉体に指令をしているかのような考えは幻想に近いと言えます。人間は万物の霊長といばっていますが、その意志や思考は欲情に左右され、肉体の生理現象にすら左右されています。そして、そのような人間の有様は、遺伝情報によってまず規定され、環境との相互作用によって形成されていきます。そして、その有様が「的はずれ」であるならば、それは「原罪」と呼んでよいでしょう。欲情や意志などの区別は必要なく、遺伝情報によって時間的に規定され、環境によって空間的に規定されている以上、昔の原罪説をあながち迷信として切り捨てることはできません
人が罪を犯す時、衝動的な場合と計画的な場合があります。前者は、いわゆる「魔が差した」という状況であり、欲情が意志を乗り越えて悪を行うわけです。後者も、欲情からスタートするものの、その欲情は意志によってコントロールされているように見えます。一国のリーダーが戦争を指導するような場合、長期にわたって意志を維持し、頭をフル活用します。いずれにしても、習慣的にせよ持続的にせよ、そこに「罪の力」が働いていて、人間はその道具になりさがっていることを認めざるを得ません。パウロが言う「罪の奴隷」という姿です。このような人間観は非常に悲観的に見えます。ユダヤ教がキリスト教を批判するのもその点でしょう。そして、さらに個人の自由意志まで除外されてしまうと、人間は全くの被害者になってしまう危険があります。ですから、「原罪」については聖書、特にローマ書全体から判断する必要があります。
「全的堕落」した人類は、ただキリスト教の洗礼という恩寵によってのみ罪から解放されると主張する人たちもいますが、キリスト教の実相を知れば疑わしいものです。パウロが割礼によらない救いを語る時、それは宗教によらない救いを語っています。キリスト教ではなくキリストご自身が救ってくださるのです。「全的堕落」には宗教も含まれているのであり、それは、的外れの環境を構成しています。(宗教だけが的外れなのではなく、世俗も的外れです)。そして、それを「外から見て」批判している人も的外れです。人間は全ての環境の外から見ることなどできないのですから。私たちはただキリストとの出会いによって、遺伝や環境にもかかわらず、ただ恵みによって救われるのです。