礼拝メッセージ要約

2023423日 「神の真実と人の不真実」

 

ローマ書3章 第22

では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。 

それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。

 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。

 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。

 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。

 絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。

 でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。

 「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。――私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。

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真のユダヤ人(霊的ユダヤ人)について述べたパウロは、もう一度、肉のユダヤ人(割礼の人)について語ります。霊的なユダヤ人だけが重要なら、肉のユダヤ人(ユダヤ教徒)の存在は無意味ではないかと言う人がいるからです。パウロは、無意味どころか、その利点(益)はたくさんあると言います。ただ、ここでは、ひとつの利点だけに触れ次の議論に進んでいきます。その議論が本題なのですが、その前に、この「ひとつの益」を確認しましょう。

 

その益とは、「神のいろいろなおことばをゆだねられている」ということです。パウロがここで律法と言わず、神のいろいろんなおことば」と書いているのは、おそらく「律法」という言葉からユダヤ側に想像するもの(すなわちユダヤ教全体)というよりも、文字通り「神のことば」を指しているからでしょう。今日「聖書」と呼んでいるものと実質は同じと考えてもよいと思われます。事実、ユダヤ民族は旧約聖書の諸文書を長期間正確に保持してきました。その功績は多大なるものがあります。それは神に「ゆだねられた」とありますが、「信託」という意味です。この「信」がまさにテーマとなります。

 

神がご自身のことばを託したのは、ユダヤ人を「信じた」ことの証です(「信頼」のほうが自然な言い方)。つまり、神の「信」の具体的な行動なのです。このことからパウロは本題に進みます。3節で「彼ら(ユダヤ人)のうちに不真実な者があったら」とありますが、不真実は「不信」という言葉です。人間の「不信」、すなわち神の「信託」にそむいているなら、それは神の「信」(真実の原語)を無効にするのではないかという議論です。これは巧妙な議論です。神の「信」を持ち出すと、人の「不信」が神の信を帳消しにしてしまうではないかというのです。パウロはこれに対して9章で細かく答えていますが、ここでは単純に、人がどうであろうと神の「信」=真実は不動であるという一般原則で答えています。その根拠として詩篇516節(ギリシャ語版)を部分引用してあげています。もちろん、この一般原則は神が神である以上、特定の聖句の引用以上に大切なものですから、議論は一旦打ち切られます。また、この議論から、パウロは「神のことば」の中に福音を含めて、このように言っていると考えられます。「福音は神の『信』のメッセージだが、それを拒否した者が多い。しかし、それは福音の意義を否定するものではない。神の『信』が勝利する」。パウロは、ここでは論争ではなく宣言をしています。

 

この箇所からも、パウロが語る「神の信」が、一般的に考えられているものより深いものであることが分かります。一般的というのは、「神はご自身を偽ることがない」という意味の真実です。「神は嘘をつかない」というのはその通りで、パウロも同様でしょう。しかし、神がご自身のことばをユダヤ人に「信託」したということで、パウロは、「信」を神と人との関係性として見ているのです。いわば信頼関係です。神がユダヤ人を「信頼」してみことばを委ねたというのは、神がユダヤ人の裏切りを予想できず失敗したということなのでしょうか? もちろん、そうではありません。詐欺にだまされるような神は神ではありません。ですから、神がことばを与えたというのは、「従うだろうと信じて命令をした」という律法的なことではなく、神がご自身の心を彼らに打ち明けたというような意味にとるべきなのです。

 

「信頼を裏切る」ということを人間的に解釈すると、どうしても「騙された」というニュアンスが出てきます。しかし、この信頼とは「愛」の具体的なあり方であり、「心を打ち明ける」という行為であり、ユダヤ人(の一部)は、その神の愛に答えなかったというのが歴史的事実なのです。神は騙されてはいませんが、愛に答えない人々をなおも愛し続けるということ、その具体的な形が、神のことばが受肉したキリストです。それを伝えるのが福音であり、福音は、その神の「信」はすなわちキリストの「信」であり、それに答えるのが私たちの「信」なのです。このテーマは3章後半から4章にわたって詳細に語られます。

 

パウロはこのテーマに関連して、人の不信を不義と言い換え、神の信を神の義と言い換えて、類似した問題を扱っています。人の不義によって神の義が明らかになるなら、神が人を裁くことは不当ではないかという抗議です。ここでもパウロは詳細な議論はせず、単に、神が正しく裁くのは当然だという、基本的原則で応答しています。(ユダヤ人に基本原則を覆すことはできません)。それでも抗議は続きます。不義と義を偽りと真理と置き換え、人の偽りが神の真理を現わすなら、もっと偽り(悪)を行うほうが良いといのです。パウロが、そのような屁理屈はもはや一蹴していますが、なんと、ある人々は、パウロ自身がそのようなことを言っていると主張しているのです。これは、恵みと罪との関連に関しての問題として、5章以下で詳しく扱われます。

 

ここでは、不信、不義、偽り、悪が同義であり、信、義、真理、善が同義であることに注目しましょう。そして、前者のグループが人に当てはまり、後者が神に当てはまります。屁理屈とは、「前者(悪)は後者(善)を引き立てているのだから、悪は悪ではない」というものです。論理としては破綻していますが、「どんなものにも役割があるのだから、悪などというものはない」という主張は、全てを「多様性」の枠で受容するべしという言う現代西側世界の主張に合致しやすいものです。そして、そのような「受容」が聖書の「赦し」と同一視される危険は常にあり、パウロに向けられた上記の非難もそれにつながります。そして、それは「愛」の本質をどう捉えるのかという問題になるのです。パウロは、この箇所ではこの難問に対して、神の原理原則を述べるだけで、詳細は後に扱っています。そして、それは決して単純な話ではありません。私たちは、改めて「善と悪は、究極的には絶対的に相いれないものであること。それにもかかわらず、神はキリストの死によって罪人を赦し受け入れてくださったこと、そして、それが神の愛であること」、すなわち福音を聞き、福音の中に生かされるのです。