礼拝メッセージ要約

2023416日 復活祭その2

 

ローマ書 第21

2

25 もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。

26 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。

27 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。

28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。

29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

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「からだの割礼」と御霊による「心の割礼」との対比がローマ書のテーマのひとつです。8章で、そのメッセージはクライマックスを迎えることになりますが、今回も復活祭(イースター)に関して、ローマ書のこの箇所と復活との関連を確認していきましょう。

 

まず結論を先取りすると、からだに割礼を帯びた外見上のユダヤ人の問題が完全に解消されるのは「復活」においてです。しかし、それは「復活」をどのように理解するかにかかっています。それが「選民の回復」なのか否かが問題なのです。もし「回復」であるならば、からだの割礼にも永続的な価値があるからです。この問題についてユダヤ人の立場から考えましょう。前に、選民(ユダヤ人)のために神の名が異邦人の間で汚されているという言葉を読みました。これは、エゼキエルの預言からの(応用的な)引用です。その預言の概略はこうです。「イスラエルは神に背き続けたために全世界に散らされてしまう。ところが彼らは、その行った所でも御名を汚し続けた。神は、汚されているご自身の聖なる御名を惜しんだ。そこで神は彼らを約束の地に連れ戻す。その上で、神は彼らをきよめ、新しい心、新しい霊を与える」。(エゼキエル3616-32) パウロはこの預言を前提として語っています。

 

この「イスラエルの回復」はエゼキエルだけの考えではありません。弟子たちが復活されたイエス様に、「今こそイスラエルを再興してくださるのですか」と尋ね、イエス様はその質問自体は否定されず、ただその時期は不問にされたことからもわかります。これがユダヤ人にとって死活問題であることは当然のことでしょう。「人目に隠れたユダヤ人が本物のユダヤ人だ」と言っても、イスラエルの回復までが否定されるわけではありません。エゼキエルは続く「枯れた骨の谷の預言」(371-14)でも、骨に肉が付き生き返る群衆のビジョンを通して、イスラエルの回復をダイナミックに語っています。ユダヤ人が「復活」を語る時、まずはこの「イスラエルの回復」を意味します。もちろん、その回復は、単に以前の状態に後戻りするということではなく、内容的にも前進するべきものです。「その上で、神は彼らをきよめ、新しい心、新しい霊を与える」とあるからです。問題は、この部分をどう解釈するかで、それによって「回復」が「復活」につながるかどうかが決まってきます。

 

単なる「回復」の立場からすれば、「新しい心」とは、律法に従う心です。以前にもそのような心はあったとは言え、大勢はそうではなかったためにイスラエルは離散してしまいました。しかし、約束の地に帰還した暁には、皆が新しい心を持って律法を実践するようになるということです。それ自体はすばらしいビジョンです。現代イスラエルを見る時に、その一部は実現しているように感じると共に、先行きは非常に不透明でもあります。果たして、「帰還」したからと言うだけで、新しい心になる保証は全くないのですから。エゼキエルの「枯れた骨の復活」の幻も、それが単なる回復や改善を超えた超自然的な出来事であることを暗示しています。そこで、新しい心と共に記されている「新しい霊」が何を意味するかが重要になってきます。

 

パウロは(そして新約の福音は)、それを単なるユダヤ人の精神の回復とは捉えません。なぜなら、彼らにとってユダヤ人とは一つの人種であるだけでなく、人類の「型」でもあるからです。すなわち、ユダヤ人の回復とは、民族大移動と民族復興のことだけでなく、人類全体の「回復」の型なのです。神がユダヤ人の民族神ではなく、天地の創造者である以上、当然のことですし、それだからこそ、福音が私たちにも意味を持つのです。では、人類の回復とは何からの回復なのでしょうか。

 

それは、アダムの堕落からの回復に他なりません。物語的に言えば、エデンへの帰還です。もちろん、地理的なエデンはもう存在しませんし、「イスラエルがエデンである」という主張に対しては、それが全人類の住む場所にはなり得ないと答えるしかありません。全人類が帰るべき場所は、地上には現存せず、他の惑星でもない以上、新天地である他ないのです。そして、その新天地の住人は、新天地にふさわしい新しい性質を持った人間でなければなりません。この「旧人類」から「新人類」への転換はもちろん超自然的な出来事です。それが単なる「回復」と「改善」ではなく、全く新しい世界の創造であることは明らかです。この事態を「復活」と呼びます。人類の復活とは新人類の創造のことなのです。しかしそれが「復活」と呼ばれるのは、その「新人類」が、今の人類と無関係に新しく造られるのではなく、今の人類を素材として、それをつくりかえることで生み出されるからです。今の人類すなわち肉の存在に聖霊が与えられ、まずは霊が新たにされます。そして、肉も死んで終わりではなく、来るべき時に、「霊のからだ」に作り変えられるのです。この「霊のからだ」が、新しい天地にふさわしい存在であり、アダムの堕落によって失われてしまった「神のかたち」にかたどって造られた人のあるべき姿なのです。

 

キリストの復活という福音の中心メッセージは、このような文脈で語られています。それは単に、神の力の誇示ではありません。無実の人が処刑されたのを、神が生き返らせて名誉「回復」したという話でもありません。また、彼は無実だったので、天国に行ったという話でもありません。この世での回復(生き返り)でもなく、あの世への往生でもないのです。むしろそれは、アダムの堕落を克服する神の出来事です。キリストの死は、無実の殉教者の死ではありません。人類の罪を肩代わりし、神に呪われたものとして死なれたのです。旧人類の代表としての死です。私たちが「自分のためにキリストが死なれた」というのもその意味です。そして、その罪(すなわち全人類の罪)が清算され復活しました。それが古い状態への回復でないことは明白です。キリストご自身は、初めから聖霊による存在でしたから、初めから「旧人類」だったのではなく、「旧人類」となられたのです。それは、神の愛という根本テーマにつながりますが、今のところは、キリストの死が私たちの死であるということが中心テーマです。そして、その死においてキリストとつながったならば、復活においてもキリストとつながるのです。これは6章で中心的に語られます。

 

ですから、御霊による「心の割礼」とは、まず「死」においてキリストとつながることを意味します。そして、その必然のこととして私たちはキリストの復活に与るのです。「死と復活」はふたつでひとつであり、決して切り離すことはできません。そして、復活とは、「付着した汚れを洗い落してきれいな状態を回復すること」ではなく、聖霊による創造に私たちが与ることです。「キリストは初穂としてよみがえりました」。私たちは、収穫の時によみがえるべく召されたのです。