礼拝メッセージ要約
2023年4月9日 復活祭
使徒の働き 9章
1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
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本日は今年の復活祭(イースター)です。イエスキリストの復活は福音の中核であり、信仰のいわば一丁目一番地です。クリスチャンは、当所、主(イエス)の弟子や、「その道の者」などと呼ばれていましたが、自らは「復活者キリストの証人」と称していました。それは今日も同様で、キリスト教なるものには様々な種類がありますが、その教えの内容はどうであれ、キリストの復活がなければ何の意味もありません。復活祭は、その原点を改めて確認する日です。
とはいえ、「復活」という言葉には様々な意味がありますから、その豊かな内容を理解する必要があります。福音書には、当時起こった「復活」の出来事の記述があり、現場にいた人たちの様々な角度からの証言があります。しかし、私たちは2000年前に戻ることができませんから、彼らと同じ立場で「復活」を体験することはできません。「体験がなくても、彼らの証言を信じればいいではないか」という人もいますが、それだけでは頭だけの信仰に終わってしまいます。もちろん、体験は一人ひとり違いますから、体験だけに頼るのも危険ではあります。そこで、今回は新約メッセージ(福音)の中核をなしている使徒パウロの体験を通して、「復活」の一側面を学びます。その側面とは、復活の中心である、「十字架で死んだイエスは生きている」ということです。
宗教一般において、その教祖が死後も信奉され続けることは珍しいことではありません。信者にとって教祖は絶対的ですから、死後も影響力を維持することはあります。教祖の精神や教えが続くだけでなく、教祖は霊界で生き続け指導していると言われることもあります。時にキリストも同類に見なされます。しかし、そのような大雑把な見方ではなく、パウロに起こった出来事を詳しく見てみましょう。パウロ(当初の名前はサウロ)は、厳格なパリサイ派(律法主義)の出身で、個人での信仰に留まらず、キリストの弟子たちを積極的に迫害する側でした。その迫害の行動の途上での出来事が、上記の聖書箇所です。劇的な描写がされていますが、要点は明確です。パウロが天からの光にさらされ、そこに声が響いた。「なぜ私を迫害するのか」と。パウロはそれが天からのものだとはわかったが、だれの声かはわからなかったので問うと、声の主はパウロが迫害しているイエスであるという答えであった。以上のようなものです。パウロは当然、イエス様が十字架で処刑されたことを知っていましたから、そのイエス様が生きていて、しかも天から語りかけてくる存在であることを、彼自身の理解と意に反して悟らされたということです。
パウロに限らず、イエス様と地上での行動を共にしていた弟子たちも、当初は復活を受け入れるのが困難であった様子が記されています。世間では、イエス様を裏切った弟子たちが、心理的負担を軽くするために復活を思い込むようになったという心理学的説明をする人もいますが、パウロが自らの迫害行為を負担に感じたという説明には無理があります。(宗教的迫害者は、確信と喜びをもって神に仕えているつもりで迫害するものです)。復活のキリストとの遭遇は、パウロのように劇的がどうかは別にして、その人の理解や意に「反して」起こるのです。それは何もクリスチャンを弾圧していた人だけに起こるわけではありません。どんな人であっても常識のある人であるならば、死んだ人が生きているというのは納得できる話ではないでしょう。ですから、もし復活が示されたとすれば、それが「理解」に反しているというのは当たり前のことです。
それでは、「意に反して」というのはどういうことでしょう。迫害者によって、キリストが生きているのは「意に反している」のは当然です。しかし、今日の多くの人は、とりたててクリスチャンを迫害しているわけではないでしょう。それならば、別にキリストが生きていても別に構わないのではないでしょうか。多くの人にとっては無関係のこととされています。「キリストは万民の主だから無関係ではない」とクリスチャンは主張しますが、実感の無い人を説得するのは困難でしょう。それでは、単なる標語ではなく、クリスチャンを迫害するどころか、会ったこともない多くの人にとって、どんな意味を持っているのでしょうか。鍵は「内在のキリスト」です。
パウロに対してイエス様が語られたのは「なぜ私を迫害するのか」というものでした。もちろん、パウロが迫害していたのはイエス様の弟子であって、イエス様には会ったこともありません。ポイントは、弟子たちにキリストが内在していたということです。どうしてそれを悟ったのかは書かれていないので分かりません。そもそも、内在のお方を見ることなどできませんし、理屈で説得することも不可能です。それは啓示として示される他ないのです。パウロは、この時の事について、自分自身の手紙で単純にこう書いています。「御子(キリスト)が私のうちに示された」。使徒の働きでは天からの光として、外的な出来事のように描写していますが、本質は、パウロに「内在のキリスト」が啓示されたという所にあります。人にとって、最も中心にあるのは「その人そのもの」であり、心とか魂とか呼ばれています。パウロにとっては、律法に仕える魂が中心でしたが、私たちの場合も、それぞれ自分の中心があります。しかし、その中心が否定され、そこにキリストがおられるというのは、まさに私たちの意に反することです。そして、それが実際に起こるのであり、生きておられるキリストの啓示なのです。
この「内在のキリスト」が、一部の特定の人だけに関わるのではなく、実は「思いがけない」形で普遍的に拡がっているということが実は大切なポイントです。キリストは、実はどこに「隠れて」おられるのかわかりません。「靴屋のマルチン」は、交錯した人々の中に、実はキリストが隠れていたという話です。これは、マタイ25章を題材にしていますが、そこには、衣食住に困っている人、病んでいる人、牢にいる人等、弱者に対してしたことはイエス様にしたことなのだとあります。それは、単なる慈善活動の勧め以上なのですが、ポイントは、キリストとの関わりと他者との関わりには関連があるということです。このようなメッセージは私たちの意に反しますが、それが啓示される時に、私たちもパウロと同じ世界にいることになります。
いずれにしても、ポイントは「内在のキリスト」です。キリストが万民に関わるのは、キリストが宇宙から地上の人々を見下ろしているとか、ユダヤの王が全世界を統一するというようなことよりも、それが、人間という存在の本性に関わることだからです。すなわち、人はだれでも「神のかたち」に似せて造られた存在でありながら、神から離れ、その本来の姿を失っています。そこに、神のかたちであるキリストが来られ、私たちの中心に座し、私たちの中心に生きてくださるのです。