礼拝メッセージ要約

202342

 

ローマ書 第20

2

25 もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。

26 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。

27 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。

28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。

29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

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パウロはここで「ユダヤ人とは何なのか」という、大変重大なテーマに触れています。「ユダヤ人のために異邦人の中で神の名が汚されている」という以上、これが大問題なのは当然です。パウロの話の前に、一般的なことを確認しましょう。

 

「ユダヤ人とは何なのか」(ユダヤ人の定義)というのは、今日では非常に難しい問題です。もともとは、イスラエル民族のことで、パウロの言う「割礼を受けている者」です。(ただし、割礼は男性のことですから、その男性と結婚した女性や子ども含めて「民族」と言えます)。その後ヨーロッパ(イスラエルが存在しないキリスト教世界)ではユダヤ人=ユダヤ教徒を意味するようになりました。近代以降ではユダヤ教徒の家系でありながらキリスト教に改宗した人(同化ユダヤ人)や無神論者(両義性ユダヤ人)も登場し、定義は曖昧になります。信仰はともかくユダヤ的な価値観を持っている者程度の意味にもなり、「ユダヤ人とは自分をユダヤ人と呼ぶ者だ」と言う人も出てきました。しかし、ナチスはユダヤ人をユダヤ民族と定義し、その抹殺を図ることになりました。そして、今日も、漠然とユダヤを民族と考え、その優秀さ(ノーベル賞の数)などに言及する人もいます。(実際は、民族ではなく、ユダヤ的な教育法の問題かもしれません)。

 

今日ユダヤ人自身の定義では、「ユダヤ人とは母親がユダヤ人であるか、ユダヤ教に改宗した人」となっています。つまり母系ですが、その「母親がユダヤ人」というのが、どのような中身があるのかははっきりしないので、結局、母系を遡って、大昔にイスラエル人だったとするしかないのかもしれません。その場合、ユダヤ人=イスラエル人となりますが、現代のイスラエルは実質多民族、多宗教の民主主義国家ですから、古代と現代のイスラエルを同一視することはできません。さらに問題なのは、いわゆるメシアニック・ジュ―(イエスをメシヤと信じるユダヤ人)の存在です。ユダヤ教側からは、彼らは非ユダヤ人(キリスト教徒)を見なされていますが、彼らはあくまでも自分はユダヤ人であると主張しています(実際、その通りであり、それが、パウロの話につながります)。

 

パウロの時代に戻ります。ユダヤ人とは当然ユダヤ教徒であり、それはイスラエル人と在外イスラエル人とからなっていました。そして、その印が「割礼」という身体的な特徴でした。それは、一旦受けたならば、通常、生涯続きます。現代の日本や欧米のように、信仰を個人の選択の問題と考えると違和感がありますが、江戸時代のように皆が檀家であるような社会を想像すれば分かりやすいでしょう。そのような世界では、そこから離れることは、すなわち共同体から絶縁されることを意味します。ですから、割礼の有無とは、実質的にユダヤ人共同体の一員であるかどうかということになります。

 

しかし、パウロが問題にしているのは割礼と律法との関係です。ユダヤ人(ユダヤ共同体の一員)であることと、律法を行うこととは別だということです。これも、檀家であることと仏教を実践していることとは別だということから分かりやすいでしょう。一般に宗教儀礼を守ることが宗教を実践していることだと思われますが、もちろんそれ以上に日常生活上の決まりを守ることも要求されます。前回学んだように、モーセ律法を守ることは、それを規則として順守することよりも、律法(ユダヤ教)全体を通して神の御心を知り、その御心を地上で具体化することが「律法を行う」ということであり、それはモーセ律法を明文として持っていなくても可能です。神の御心は普遍的であると同時に、それぞれの民族の特性を活かし、また変革して実現していくからです。要するに、神のわざは人間の宗教に制約されないということです。この律法を行うことと、今回の箇所では、割礼、すなわち共同体の一員の問題との関連が問われています。

 

繰り返しになりますが、この共同体というのは、生まれつき所属しているものを指しています。これは自分で選べないものです。昨今話題になっている「宗教2世」の場合、心理的拘束力は強いものの、親の宗教から離脱することは可能ですが、現代でも離脱が死を意味するような社会もあります。日本人としてこれを理解するためには、宗教よりも「日本人の精神」のような捉え方が必要でしょう。これは、最近の国際野球でも見られるように、「あの外国人は日本人より日本人らしい」というような表現にみられます。「和の精神」「献身的な態度」「どんな状況でも全力を出すこと」等が、高く評価されているようです。外見上の日本人が日本人なのではないということでしょう。ただし、そのような選手が、本国から排斥されるわけではないという所が大きな違いです。

 

パウロは、ユダヤ人についても似たことを言っています。体ではなく「心の割礼」が大事であり、その人の所属先ではなく精神が問題です。精神と霊は同じ言葉ですが、幅広い意味があるので具体的に語るのは容易ではありません。それは「御霊による」のですから、単に生まれつきの性質でないことは確かです。ユダヤ的な精神を持った異邦人のことだと単純化することはできません。「心の割礼」という表現から、聖霊がその人の精神に刻印を押した状態(それも取り消すことができない状態)を指していると言えるでしょう。聖書の他の箇所では、単に聖霊を受けるという表現もありますが、受けるという言葉から連想する「聖霊を所有するようになる」ということよりも、「割礼を受ける」という表現に従って、イエスの御名を刻まれるというニュアンスにとるべきでしょう。そしてこれを、キリスト教会組織の名簿に記載されるというような、「所属」の話にしてはなりません。

 

しばしば、ユダヤ人の割礼の新約版がキリスト教の洗礼(水のバプテスマ)であると言われます。しかし、もし洗礼が特定のキリスト教団体への所属を意味するなら、パウロの言葉を思い出す必要があります。「かえって人目に隠れたクリスチャンがクリスチャンであり、文字ではなく、御霊による、心の洗礼こそ洗礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです」と読み替えることができるのです。ただし、これを、「あの人はクリスチャンでないけれどクリスチャンっぽい」というような「人の性格」の話に還元するべきではありません。それは例えば「穏健で礼儀正しい品行方正の人」という意味で使うか、「面白みのない堅物」という意味で使うか、いずれにしても「外見上のこと」(人目に隠れていないこと)に過ぎません。クリスチャンは恵みにより罪が赦された者のことであり、それは目に見えないのです。そして、罪の赦しは神だけに可能なことであり、それは聖霊の働きに他なりません。もちろん、聖霊はその実を結び、いずれ外見にも変化があらわれるでしょう。しかし、私たちは外見によらず、あくまでも聖霊の働きに委ね、聖霊による知恵によって判断するのです。