礼拝メッセージ要約

2023326日 「偽善について」

 

ローマ書 第19

2

17 もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、

18 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、

19 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、

21 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。

22 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。

23 律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。

24 これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。

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パウロは17節から、はっきりとユダヤ人向けに語っています。2章冒頭で、自分でも同じことをしながら他人をさばく人に対して下る神のさばきについて語られましたが、ここではその具体的な実例が述べられています。ただし、その具体例を見る前に、一つ注意点があります。「自分をユダヤ人ととなえ」という箇所です。「自分をユダヤ人と名乗る」あるいは「ユダヤ人と呼ばれている」というような意味ですが、ずばり「ユダヤ人」であるとは言っていません。「ユダヤ人とは何なのか」という問い自体が大問題で、2章の最後から取り上げることになりますが、ここでは、とりあえず一般的な意味でユダヤ人と呼ばれている人と解してよいでしょう。そして、それはユダヤ教徒とほとんど同じ意味だということも前提です。

 

彼らは何よりも律法を持っている民族です。その律法は「知識と真理の具体的な形」であると言われています。まず、律法自体には高い評価が与えられており、この点については7章でも触れられます。ここでは、そのような優れた律法を持っていながら、それを実行していないという基本的な指摘が繰り返されています。「知識」や「真理」は、ギリシャ世界で尊ばれているものですが、ここではそれが「何」なのかという哲学的な議論には触れず、十戒に代表される、ユダヤの実践的な徳について書かれています。知識や真理とは、知的な理解や悟りのような特別な体験ではなく、日常生活の歩みであるというのは、ユダヤ人の基本的な考えであり、聖書の立場でもあります。

 

そして、当時のユダヤ人の中には、そのような「真理」を自分たちだけにとどめず、異邦人にも広めるべきだという考えの人もいました。異邦人への教師であるという立場です。そして、現実にそのような「ユダヤ教の宣教」を通して、ユダヤ教に改宗する人や、改宗までには至らないものの、ユダヤ的生活に接近する「敬虔な異邦人」と呼ばれる人も起こされていました。しかし、「言っていることとやっていることは違う」という現象は常に起こりうることで、そのような「偽善」は福音書でも厳しく追及されています。

 

偽善はどの世界にもありますが、特に問題となるのが「宗教的偽善」です。偽善を避けるためには、人を教える前に自分を教えることが必要です。それは、日常生活のなかの決まり事のようなものであれば明確でしょう。「豚肉は食べるな」と言うなら、まず自分が食べないというようなことです。中には、人には断食をさせて、自分だけこっそり食べるような人もいるかもしれませんが、そのような一部の人の問題ではありません。むしろ「盗むな」「姦淫するな」「偶像崇拝するな」という戒めそのものの性質が問われているのです。これを、刑事的犯罪、社会的規範、宗教的慣習、すなわち外から見える決まり事として捉えるなら、大方のユダヤ人は守っていると考えられます。しかし、パウロが、「偶像崇拝はしなくても神殿のものをかすめる」と言う時、物理的に何かを拝むこと以上が問題になっていることは明らかです。

 

「盗難」「姦淫」「偶像」すべて、結局は、自分に所属していないものを私物化するということです。このことは、後に7章で「むさぼり」という言葉でくわしく述べられます。ここでは、外見的には正しい宗教生活をしていても、その内実においては、不当な私物化を行っている状態とだけ捉えておきます。そして、そのような状態でありながら、外見にあらわれた罪だけを指摘して、さばいたり、自分が上だと思ったりしていることが間違いなのです。そして、それは一般論だけでなく、特にユダヤ人について言われています。言い換えると、異教の世界でも実践され宣教されているユダヤ教が問題となっているのです。結果として、神を宣べ伝えているはずの宗教が、異教徒の中で、神の名を汚しているということです。

 

この問題は、当時のユダヤだけのことではありません。「良いもの」を持っていると称する人が、それを人に勧める時に陥りやすいことですから、私たちも十分気を付けなければなりません。自分に与えられた「良いもの」を大切にし、人に分かち合うことは絶対に大切ですが、問題はその「良いもの」の捉え方です。自分がその「良いもの」を所有しているかのように勘違いすると誤ります。福音(あるいはキリスト教)という「真理」を所有していて、それを人に教えるというのではありません。福音とは、自分が所有できるものではなく、逆に自分が福音に「所有」されるのです。すなわち、神の恵みによって生かされているということです。いわば私たちは本来「無一物」なのです。これは、あらゆる私有物を否定するものではありませんが、私有物とされるものも、あくまで神の所有であるということです。この私物化の誤りは、あらゆる分野で起こりますが、特に危険で分かりにくいのが宗教の私物化です。そのことが、ここではユダヤ人を代表として扱われていますが、キリスト教に置き換えてみましょう。

 

自称キリスト教国が犯してきた様々な罪について述べることは簡単でしょう。平和を説きながら戦争を美化したり、いわゆる聖職者が犯す性的犯罪などが世間を騒がしたりして、まさに神の名が汚されている状況は嘆かわしいものです。ただ、もっと日常的なものにも注意が必要です。「知識と真理の具体的な形」としての律法に相当するのは、聖書だけでなく、そこから派生したキリスト教の様々な教えも含みます。上記の例でわかるように、ユダヤ教では十戒から入りますが、キリスト教ではどうでしょうか。人に何を伝えるでしょうか。聖書を読むこと、礼拝などの集会に出席することでしょうか。日常生活のことよりも、まずそのような「宗教的行為」を勧めることが多いようです。しかし、宗教的行為は、福音に生かされている人の生活の一部であって、福音そのものではありません。福音は神の力(働き)であり、それは、宗教的行為だけでなく、あらゆる分野に及んでいるのです。

 

その「神の力」は「聖霊の働き」でもありますが、それが様々な領域で働くときに、神の国(支配)が実現します。人の支配ではなく神の支配というところがポイントです。人が宗教によって人を支配することとは本質的に異なるのです。人による宗教的支配は、今日さまざまな形で問題となっていますが、それが権利の侵害であるだけでなく、神の私物化という恐ろしい偶像崇拝でもあるということを認識することが必要です。そして、この問題は宗教を排除することで解決しないのは明らかです。神の支配がなければ、結局、別の形で人の支配が行われるだけだからです。ですから、私たちは、「神の国(支配)が来ますように」と切に祈り続けるのです。