礼拝メッセージ要約
2023年3月19日 「律法について」
ローマ書 第18回
12 律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。
13 それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。
14 ――律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
15 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ――
16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。
ここで、「律法」という新たなキーワードが登場します。福音を理解するためには、前提として律法を理解しなければならないので、丁寧に見ていきましょう。「律法」はギリシャ語(新約)では「ノモス」、へブル語では「トーラー」の訳です。「ノモス」は法律や法則という意味なので「律法」もそのような規則の集まりのようなイメージがありますが、元来の「トーラー」はそうではありません。パウロもユダヤ人なので、律法という時には当然「トーラー」を意味していたはずですから、「トーラー」について確認しましょう。
「トーラー」には狭い意味と広い意味があります。狭い意味というのは、(旧約)聖書の書物の区分としての意味です。(旧約)聖書のユダヤ版(へブル語)は、キリスト教のものとは異なり、三つの分類からなっています。「律法(トーラー)」、「預言者」、「諸書」の三つで、その意味での「トーラー」は「モーセ五書」を指し、絶対的な権威を持っています。ただし、モーセ五書自体、戒律だけではなく、ユダヤ人の歴史を中心とした様々な内容を持っていることに注意が必要です。広い意味では、預言者や諸書も含めた聖書全体から、さらにそれらに関する膨大な口伝律法と称されるものまで含めた、いわば「ユダヤ教」と言うべき、ユダヤ人の全生活を規定しているものを指します。パウロがどの意味で「律法」という言葉を使っているのかは重要です。パウロがキリストと出会う前の自分自身について語った箇所があります。ガラテヤ書1章13節、14節では「ユダヤ教の中にいる」と書き、ピリピ書3章5節、6節では同様の内容を「律法」で表現していますから、モーセ五書だけではなく、広い意味で使っていると見て良いでしょう。
ですから、律法をユダヤ教と言い換えると、律法を持たない異邦人とは非ユダヤ教徒のことであり、律法の下にある者とはユダヤ教徒のこととですから、これは当たり前の話です。そして、ユダヤ人とは一般的にユダヤ教徒のことを指していますから、12節はユダヤ教徒であろうがなかろうが、罪を犯した者は滅びるという一般原則が語られていることになります。これは、前節から言われているように、ユダヤ人が選民であるということで免罪となることはなく、異邦人だということで有罪になるわけでもないということです。これは、ユダヤ人には警告になります。異邦人にとっては励ましになると同時に、「異邦人には律法がないのだから罪もない」という誤った認識を正す意味もあります。(律法を「規則」という意味に限定してしまうと、規則がないなら違反もないという危険な主張につながる可能性もあります)。
ユダヤ教徒がユダヤ教の基準によって裁かれるというのは当然のことでしょう。これは、ユダヤ人はユダヤ人としてふさわしい生き方をしなければならないということです。ですから、13節だけを取り上げて、「信仰による義」に反する「行いによる義」を述べているとすることはできません。ユダヤ人として生まれて生活をしているからといって、それで自動的に安泰になるのではないというのは、旧約の預言者たちからバプテスマのヨハネにいたるまで繰り返し言われてきたことであり、ローマ書でも「残りの者」というテーマで扱われることになるのでそこで改めて学ぶことになります。
ここでは、その前に14節、15節で異邦人のことについて触れられています。律法を持たない異邦人という時、ユダヤ教徒ではないという意味になりますが、それでは彼らは、まったく無秩序、無宗教なのかというと、決してそうではないということです。パウロは、彼らには「生まれつきのままで律法の命じる行いをする」可能性があると言います。この「生まれつきのまま」という表現にはいくつかの解釈があります。ギリシャ世界には、人にはロゴス(理性)が与えられており、それに従って生きるべきだという考えがあり、それは現代でも共通でしょう。また、当時のギリシャ的(ヘレニズム)ユダヤ教でも、神はその「知恵」によって万物を創造し、万人にはその知恵によって神を知ることができるという考えがありました。ただ、その知恵が成文律法になっているかないかの違いはあり、成文律法がない異邦人では、心には知恵(文章化されていない律法)があるということになります。
ただし、ユダヤ人の一部は、その心にある「非成文律法」も、実質ユダヤ教と同質であるべきだと考えるきらいがあります。そのような種類の「隠れたユダヤ教主義」には注意が必要です。というのは、それは、救われた異邦人はユダヤ人になるべきだという「割礼を強制する」立場につながる可能性があるからです。この「割礼」の問題も後で出てくるので、そこで改めて読んでいきます。ここでは、律法=ユダヤ教、無律法=非ユダヤ教というシンプルな原点に帰ります。非ユダヤ教はたくさんあり、イスラム教のような厳格な成文律法の宗教もあれば、神道のような非成文宗教もあります。しかし、形態はどうであれ、それぞれが所属する人々の生活全般を規定しているという意味では同じでしょう。その意味では、いわゆる「宗教」に分類されるものに限らず、唯物論や資本主義、全体主義などの強力な「主義」も同様に考えられます。例えば、現代の日本人の多くは、資本主義についての勉強をしていなくても、そのシステムの中に組み込まれ、その中で、物事の良し悪しを判断したり、進路を考えたりします。これは、世俗宗教と呼ぶこともできるでしょう。
いずれにせよ、それら様々な宗教の中に私たちはいますので、その枠組みの中で成功・失敗、あるいは救いと裁きなどを考えます。それが、「律法の下」にあるということで、しばしば青年はそれに反抗・反逆を企て「自由」を求めますが、それも一時的に成功したり弾圧されたりすることを繰り返しているのが歴史です。この「自由」も後で大きなテーマとなります。今のところでは、まずは、人は宗教の種別にかかわらず、その中で良し悪しが決められていて、その意味ではユダヤ教だけが特別ではないということです。これは、現代では「宗教の相対主義」と言われるもので、宗教の多様性を認め、その優劣を安易につけないという考え方につながります。
ここでのポイントは、パウロは「宗教」という枠組みでは「救い」の問題は相対的であるということと、それにもかかわらず、神のさばきということについては、それは、表現は多様であっても普遍的なことだと述べている点です。人間界のことがらは宗教を含めすべて相対的であり、ただ神だけが絶対です。ですから、正しくさばけるのはただ神だけです。そうであれば、「人を救うのは神であり宗教ではない」ということになります。パウロはこの事態を、律法によらない救いという形で告げています。救いは宗教によらないというのは、今も昔も革新的なメッセージですが、それは「宗教ではなく無宗教で」というような世俗主義の意味ではないことも重要です。宗教でも世俗でもなく、神ご自身が救いとなってくださるというのが福音であり、私たちは「イエス(神は救い)は主」と告白するのです。