礼拝メッセージ要約

2023312日 「神からの報いについて」

 

ローマ書 第17

2:1 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。

2:2私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。 

2:3そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。 

2:4それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。 

2:5ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。 

2:6神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。 

2:7忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、 

2:8党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。 

2:9患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、 

2:10栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。 

2:11神にはえこひいきなどはないからです。

 

 

6節から11節までの箇所は、一見「行いによる救い」を説いているようです。ローマ書の中心メッセージである「信仰による義」に反するように思えますが、どう解釈したらよいのでしょうか。まず、前後の文脈を理解することが必要です。パウロは、異邦人世界とユダヤ人世界を並列・対比する形で話を進めていることが前提です。

まず偶像崇拝から性的退廃、そして諸悪に満ちた異邦人世界について述べた後、それをさばいているユダヤ人世界も同じだと言っています。「神にはえこひいきなどはない」からです。

 

まず「えこひいき無し」の宣言の具体的な説明が、その前に6節から10節ということになります。ですから、まずは、「行いによる救い」云々よりも、「えこひいき無し」宣言が主題だと見るべきでしょう。その上で、異邦人である私たちからしたら当然のように思えるこの宣言ですが、ユダヤ人には受け入れがたいものだということを理解することが必要です。もちろん、えこひいきという言葉は使わないでしょうが、「選び」という重大問題があるのです。神がユダヤ人を選ばれたというのは大前提であり、それ自体はパウロも同意しています。問題は、選びとえこひいきがどう違うかということです。この「ユダヤ人の選び」はローマ書の中心テーマでもあり、2章から何度も登場し、11章でクライマックスを迎えるので、順に読み込んでいくのですが、ここではその出発点を確認します。

 

まず「えこひいき」の意味です。人を、その真の価値ではなく、「顔」すなわち外見や地位などによって判断し扱うことです。神がそのようなことをされないのは当前でしょう。そもそも神をだますことなどできません。ここで問題となっているのは、その「顔」がユダヤ人か異邦人かということです。この意味の「顔」が2章の核心テーマとなります。では神は人の外面ではなく内面で判断されるという意味なのでしょうか。まず、ここで神が人に与えるものは「報酬」と訳されています。いわゆる「リターン」です。リターンは、人の外面ではなく、その生き方に対してであり、それは人種の宗教も関係ないというのは、ある意味当然でしょう。これを否定することは神の否定につながります。神は不条理ではありません。その「生き方」とは、善を行い不滅のものを求めるのか、党派心を持ち悪を行うのかという形で二分されています。しかし、前回読んだように、それは歴史の究極ではっきりすることです。現在は「麦と毒麦」が混在していて区別が難しいという「歴史観」が前提です。その究極の審判において「外面」が問題とならないのは当然でしょう。

 

それならばユダヤ人が選ばれたというのは、どのようなことなのでしょうか。今日、私たちは民主主義の社会にいるので、選ばれるというのは「選挙で多くの人から選ばれる」ということを意味します。専制主義の社会では、権力者の指示が「選び」です。どちらのシステムでも、多かれ少なかれ「えこひいき」、すなわち外面や利害での選びが起こるでしょう。神には「えこひいき」がないので、どのような基準でユダヤ人を選ばれたのかが問題となります。その内面や生き方で選ばれたのでしょうか。答えは「はい」か「いいえ」です。ユダヤ教の公式見解では「いいえ」です。公式見解が大切なのは、西洋では反ユダヤ主義や偏見が強く、「ユダヤ人は選民意識が強く異邦人を見下し、人とさえ思っていない」と主張する人たちがいるからです。もちろん、人は様々ですから、そのようなユダヤ人もいるでしょうし、新約聖書にも一見そう見える記述があります。しかし、聖書はユダヤ人が書いたのですし、自身を笑う多くのユダヤジョーク、例えば「十戒はもともと五戒だった。他の民は、戒めの内容を尋ね、守れないという理由で拒否した。一方ユダヤ人は、内容ではなく値段を尋ね、無料だと聞くと、それなら2倍くださいと言ったので十戒になった」などというものもある位ですから、ユダヤ人の自己批判精神の大きさを見くびるべきではありません。

 

つまり、ユダヤ人は外見でも内面でも生き方でもなく、ただ神の主権によって選ばれたということです。そして、その選びは使命を与えるためであり、「救い」の問題とは別なのです。いわゆる「召命」のことです。ユダヤ人だから救われるということにはなりません。これを取り違えて、単なる特権と勘違いする人が出てきたのも事実でしょう。この「召命」については、今後さらに取り上げられますが、ここでは、「報酬」との関連が問題です。上記の「報酬」は一見「救い」と同義に思われます。一方は永遠のいのちで他方が裁きですから当然でしょう。しかし、ここで述べられているのは適切な「報酬」ですから、いわゆる「因果応報」に類するものなのです。因果応報は正義ですが、必ずしも「この世」で実現しないのが現実です。しかし、世の終わりや来世で必ず実現するというのが宗教的見解です。聖書も例外ではありません。しかし、それだけでは「救い」はありません。すなわち罪の赦しが含まれていないのです。罪が単なる失敗であるなら訂正すれば済むかもしれませんが、罪はそんなに生易しいものではありません。赦し難いものが罪なのです。因果応報は、被害者の心情の助けにはなるかもしれませんが、それで失われたものが帰ってくるわけでもありません。歴史は変えられず、因果応報は歴史の必然であり、その定めが全てであるなら、そこに「救い」はありません。因果応報の歯車を超えることが無ければ、人は救われないのです。

 

神は正義の神であると同時に救いの神でもあるという、この神の二重性が出発点です。いわゆる「因果応報」(蒔いた種は刈り取ることになる)は正義の神が定めたことであり、究極的には歴史の完成とともに完結します。同時に救いの神は、私たちに赦しの手を差し伸べておられます。すなわち、因果応報で滅びに定められている私たちの罪を赦すために、ご自身のひとり子キリストを遣わしてくださいました。それが福音です。しかし、その福音に意味があるのは、前提として、この世の悲惨で不条理な状況にもかかわらず、神は正義であり、それぞれの生き方に応じて、良くも悪くも必ず報いてくださるという、いわば聖書版の因果応報があるからです。だからこそ、私たちは救いが必要であり、今やその救いが現われたのです。ですから、キリストの十字架は、神の正義と神の慈愛が一つになった場所と言われています。キリストの死は、人類の罪の報酬である死を引き受けられたものであり、そこで罪の報酬は支払われました。後にあるのは、神の赦しであり、神の慈しみです。そして、それはユダヤ人だけでなく、すべての異邦人にも開かれているのです。