礼拝メッセージ要約

202335日 「福音の背景」

 

ローマ書 第16

2:1 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。

2:2私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。 

2:3そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。 

2:4それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。 

2:5ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。 

2:6神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。 

2:7忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、 

2:8党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。 

2:9患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、 

2:10栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。 

2:11神にはえこひいきなどはないからです。

 

 

パウロは、異邦人世界の堕落した現状をさばいているユダヤ人に向かって、自分たちにもさばきが迫っていると語ります。神に選ばれた民であるはずのユダヤ人も安全ではないというのは、どういうことなのかという問題です。このメッセージはパウロのオリジナルではなく、イエス様に先駆けて現れたバプテスマのヨハネのメッセージでもあり、イエス様も、その宣教を始めるにあたって語られていたことでもあります。ですから、これは「福音」が語られる時に、その前段階として理解しなければいけないものだと言えます。「福音の背景」と称しているのはその意味です。そして、それはあくまでも「背景」であり、福音そのものではないという所が肝心です。

 

この「背景」は、聖書で語られているユダヤ人の「世界観」のことでもあります。「救い」を語る時に、「何から何への救いなのか」ということが問題ですが、それは世界観によって性格が変わってきます。例えば、古代インドのように、永遠に続く輪廻という世界観の中では、そこからの脱出(解脱)が救いとなるでしょう。あるいは、現代の日本の多くの人たちのように、現世の繁栄が目標となっている世界では、その実現こそが救いと見做されるでしょう。ですから、私たちは「福音」を「良い知らせ」として知るためには、まず聖書にあるユダヤ的世界観を理解することが必要なのです。

 

もちろん、その世界観は多様で複雑ですから単純化することはできません。私たちはその中の特徴的な要素のいくつかを扱うことになります。第一の特徴は歴史的な世界観だということです。よく対比されるのがギリシャ的な世界観で、それは、この世界の仕組みや人生の意味について思弁的(論理的)に考えられたものです。ギリシャで哲学が発達したのは良く知られています。もちろんギリシャにも神話があり、神々の「歴史」のようなものも語られますが、それが社会やひとり一人の人生の根幹をなしているわけではありません。これは日本でも同様でしょう。古事記の出来事は、心理学の興味深い研究の対象にはなっていますが、それが日本人の信仰や社会の構造を規定してはいません。(ただし、多くの日本人は世俗的な歴史には興味があり、かつ皇室の伝統が精神的な支柱になっているという面があります)。仏教でも、インドの歴史はあまり中心的なテーマではないでしょう。

 

一方ユダヤでは、アブラハムを信仰の父とし、出エジプトをアイデンティティとするだけでなく、その他の多くの歴史的出来事が例祭などを通して生活の土台となっています。それ以上に大切なのは、神の創造、人の堕落、神による救済、そして神の国の到来といった歴史的ビジョンが世界観の中核にありことです。(救済史とも呼ばれます)。そこでポイントとなるのは、この世界に存在する様々な矛盾を哲学的・論理的というよりも歴史的に捉えるという所です。例えば、神の完全の人の不完全、神の善と世の悪といった対立するものが何故共存しているのかという問いに対して、単純な矛盾ではなく、歴史として理解するのです。今回の箇所では、神の豊かな慈愛と神の怒りという形で現れています。

 

私たちは、神が限りなく慈愛に富んだお方であることを知っています。(多くの人が父よりも母をイメージするのもそのためでしょう)。それなのに神のすさまじい怒りが聖書に書かれているのにショックを受けます。この矛盾した神の両面にとまどうのは致し方無いでしょう。そこで、そのような矛盾を、陰陽や男性・女性の組み合わせといった論理で解決しようとするのではなく、歴史的な展開として把握するのです。すなわち、善を知り、善を指向しながら悪に落ちていく人間の歴史を直視し、その歴史と共におられる神を見るのです。そこに神の慈愛と忍耐と怒りを見ます。怒りはまず、人を欲に引き渡されている現実に対してです。しかし同時に慈愛と忍耐があります。それは、人を「悔い改め(認識の大転換)」に導いているのです。しかし、それが歴史的だというのは、「悔い改め」は歴史の中で行われるのですから、無制限に続くのではないということです。悔い改めが実現しなければ、そこに怒りが現実のものとなります。昨今の国際情勢などを見れば分かりやすいでしょう。それは理屈ではなく現実であり、現実は常に歴史的なのです。

 

このような「歴史的」世界観が前提となって福音が語られていきます。この箇所で注目すべきは、神の慈愛(今の時)と悔い改めがセットであり、神の怒り(歴史の彼方)がさばきとセットだという点です。悔い改めは救いと同義ですから、救いをもたらすのは神の慈愛だということになります。怒りでは人を変えることはできず、ただ慈愛だけがそれを可能にするというのは、神と人、そして人と人の関係両方で真実なのです。(怒りで変えられるのは相手の行動と、自分に対する負のイメージだけです)。これは普遍的な真実なのですが、大切なのはそれが歴史的なことでもあるということです。すなわち、そこには「時」というものがあり、変化、経過というものがあります。そして、初めがあれば終わりもあるのです。それがすなわち「生きている」ということです。私たちが「神に生かされている」というのは、ただ神の力で生物として生存しているというのではなく、神の慈愛の中で、自分の認識を神なき世界から神が共におられる世界に転換する人生という、一度限りの歴史をきざんでいるということです。

 

「今が救いの時」とよく語られますが、決断をせかすための言葉ではなく、救いは歴史的な出来事だということです。世界の仕組みとか宇宙の原理といった不変のシステムを理解することが救いなのではなく、常に変化している歴史のただ中で、その一瞬、一瞬に神の語りかけを聞き、それに応答するということなのです。日本で言えば、一期一会ということで、まさにイエス様との出会いとはそのようなものです。自分や集団、また民族、国家といった歴史を背負っている存在に、神が慈愛と忍耐と寛容を持って語りかけ、出会いを求めておられるのです。その語りかけが続く限り、歴史も存続します。しかし、語りかけは強制ではありませんから、人間にはそれを究極的に拒否する可能性もあります。それは、神の敗北ではないかという人もいるでしょう。そこから「万人救済」(最後には全ての人が救われる)という考えも出てきます。それも一つの論理でしょう。しかし、私たちは論理ではなく、常に動いている歴史の現実の中にいるのですから、「いつでも救いの時」ではなく、「今が救いの時」であり、しかもそれを忍耐を持って祈り続けるのです。