礼拝メッセージ要約

2023226日 「さばくことについて」

 

ローマ書 第15

2:1 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。

2:2私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。 

2:3そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。 

2:4それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。 

2:5ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。 

2:6神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。 

2:7忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、 

2:8党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。 

2:9患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、 

2:10栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。 

2:11神にはえこひいきなどはないからです。

 

 

パウロは、異邦人世界の堕落した現状について述べたあと、そのような状況を「さばく」人々に対して語ります。

この箇所には、いくつものテーマがあり、どれも重要です。「さばくこと」について、ユダヤ人の選びの問題、信仰と行いの問題なのです。

 

まず「さばくこと」についてです。前節で異邦人世界について述べていたとすれば、それを「さばいている」のはユダヤ人世界ということになります。しかし、まずは一般論として読みましょう。まず「さばいている」人は「神にさばかれる」という点です。これは大切なことです。究極的には神だけが正しいさばきを行うことができるのだから、人は軽々しくさばくべきではないというのは当然です(しかし実際には難しい)。ただ、パウロのこの箇所は、「人をさばきながら自分も同じことをしているのだから神にさばかれる」となっています。自分も同じことをしているのなら、他人をさばこうがさばくまいが、どちらにせよ神のさばきがくだるでしょう。とすれば、ここでは自分の元々の罪に、他人をさばくという罪が上乗せされ、よりきびしいさばきの対象となるということでしょう。これは、福音書に、主人に対する自分の大きな負債は免除してもらいながら、自分に対する他人のわずかな負債も免除しない人に対して、主人の怒りがくだる話があることからも分かります。

 

ここで当然疑問がわきます。自分が同じこと(あるいはもっと悪いこと)をしながら他人をさばくのはおかしいということは、一般論として分かりますが、自分は一切していない悪に対してはどうでしょうか。例えば、権力のある政治家が行う不正に対して怒り、批判するのはどうでしょうか。闇バイトを使い、強盗や殺人を働く人々は厳しく裁かれるべきではないでしょうか。そのような場合、自分は同じことをしていない以上、さばけるのか、それとも、一切さばいてはならないのか、難しい問題です。パウロは別の箇所で、教会内の問題をわざわざ裁判沙汰にする人たちに対して、自分たちでさばけないのかと非難しています。これらは、結局「さばく」と言うことばで何を意味するのかという問題になります。

 

まず前提として、社会の中の悪や不正を放置してよいなどと、聖書は一切語っていません。神の怒りが、そのような不正に対してくだるという時、そのような不正を放置している社会(そして権力者)全体が対象となる場合があるというのは、旧約の様々な事案からも明らかです。その意味で、クリスチャンが裁判官や警察官になるのを妨げるようなことはありません。そのような「社会秩序の維持」という意味での「さばき」は当然必要です。そして、そのような人間的な行為でさえも、究極的には神の権威の下にあるのですから尊重されるべきです。(この問題は13章で扱われます)。

 

しかし、だからと言って、人間のさばきが自動的に神のさばきと等しいことにはなりません。神のさばきの下で自分がさばくというのは、自分のさばきが神のさばきの対象となるということです。これを本気で受け取ると、怖くて他人をさばくことなどできないと思うでしょう。「さばく」というのは単純に「分別する」という事ですから、広く「判断する」と言っても良いので、この場合「良し悪しを判断する」ということになりますが、自分の頼りない判断が、神にさばかれるのなら、いっその事、判断しない方が安全だとも考えられるでしょう。しかし事はそんなに単純ではありません。ある状況下で判断すべき事があるのに判断を放棄するなら、そのような放棄が神のさばきの対象になる可能性があるのです。パウロが教会内の悪をさばくべしというのは、そのようなケースです。私たちは、さばくにしてもさばかないにしても、すべては神のさばきの下にあるのです。

 

ではいったいどうしたら良いのでしょうか。結局のところ、私たちは神の前にへりくだるしかありません。究極的に、神だけが正しくさばけるということを前提とし、自分のさばきは限定的であることを忘れずに判断することになります。その時に、「さばき」は決して機械的な法律の適用ではないことが重要です。前章で学んだように、神の「義」は「道義」であり、「施し」でもあるのです。パルロはここでは神の「豊かな慈愛と忍耐と寛容」と表現しています。そのような神の御性格の下で、さばく側もさばかれる側も共に存在することができるのです。結局、さばきとは神の御性格の現れなのです。

 

ここの「慈愛」と訳されている言葉はユニークです。直訳は「適切なものを提供する」というものですが、それが同時に「親切」という意味も持っています。慈愛というと感情的な印象がありますが、もっと具体的な行動です。神は親切なので、私たちにふさわしいものを与えつつ、忍耐しつつ寛容(長期間、熱情をコントロールし維持すること)をもって接していてくださるのです。そして、そこには明確な目的があります。それが「悔い改めに導く」というものです。ここに「悔い改め」というキーワードが登場します。意味は「考え方の転換」です。感情以上に意識の変革と言っても良いでしょう。問題は「何から何に転換するのか」ということですが、旧約の「神のもとに帰れ」という呼びかけに対応しているので、基本的には神から離れている意識から神に近づく意識への転換と考えてよいでしょう。もちろん、この意識変革は、結果的には生き方の変革をもたらすはずです。しかし、まずは意識からです。

 

ここには二つの意識がかかわります。一つは神についての意識、もう一つは自分自身の意識です。この二つはセットですが、そろって転換する必要があります。このこともローマ書のテーマで、6章や7章で取り上げられますが、ここでは、その転換をもたらすのは「神の慈愛」等であることを覚えましょう。そして、その親切の故にふさわしいものを備えてくださる神ですが、その備えとは、一般的に考えられる「良いもの」をはるかに超え、なんとそれが神のひとり子であり、聖霊なのです。これが福音であり、結局、この福音に触れ、福音の中に導き入れられることにより、「悔い改め」すなわち意識の根本的な転換が起こります。そして、神は今日も忍耐を持って、福音によって語りかけていてくださるのです。