礼拝メッセージ要約

2023219日 「諸悪とその結果について」

 

ローマ書 第14

1:28また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。 

1:29彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、 

1:30そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、 

1:31わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。 

1:32彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。

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良くない思いに引き渡された人間は、してはならないはずの数々の悪を行うようになりました。ここにその一部が列挙されていますが、当時のローマ帝国でまん延していたものだと言われています。

 

「不義」は、神と他者に対する義務を果たさない人のこと。自分自身のためにだけ生きている人のこと。

「悪」は、加害行為を伴う欲望のこと。他者を堕落させようとする計画的な意志。

「むさぼり」は、自分に属さないもの(富、地位、名誉等も含む)を自分のものにしようとする欲のこと。

「悪意」は、善に向かう資質が欠如している状態。あらゆる種類の悪徳に向かう出発点、

「ねたみ」は、すぐれた物や人をあこがれる代わりに憎むこと。

「殺意」は、実際の殺人だけでなく、他人の死を願うような心も含む。

「争い」は、野心やねたみから生まれる闘争のこと。

「欺き」は、詐欺、偽造、いわゆるフェイクのこと。裏の意図を持って行動する人。陰謀家。

「悪だくみ」は、他人の言動や性格を常に悪く解釈する心のこと。

「陰口を言う者」は、悪意あるうわさ話をこっそり拡げる者。匿名の名誉棄損。

「そしる者」は、公然と他者を侮辱する者。

「神を憎む者」は、公然と神に敵対する者。自分の欲望達成のために、神を徹底的に排除すること。

「人を人と思わぬ者」は不遜のこと。自分の利益というよりも快楽のために他人を傷つけることを喜ぶ者。

「高ぶる者」は、自分以外のすべてを軽蔑する者のこと。他人を小さく感じさせることを喜ぶ者。

「大言壮語する者」は、見栄をはり、自分が持っていないものを持っているかのように見せかける者のこと。

「悪事をたくらむ者」は、普通の悪では飽き足らず、もっと悪いことにスリルを求める者のこと。

「親に逆らう者」は、ユダヤでもローマでも大きな悪。家族崩壊の第一歩とされる。

「わきまえのない者」は、無知の者。教訓を学ばず、愚行を繰り返す者。

「約束を破る者」は、ローマ人の美徳(約束や命令に忠実)に反する者。ローマ文明崩壊の象徴のひとつ。

「情け知らずの者」は、家族愛(ストルゲー)がない事。当時子どもが簡単に捨てられていた。

「慈愛のない者」は、例えば当時の奴隷を全く物体としてか扱わない状況。残酷な者。

 

これらが悪人の特徴であるのは明らかです。反対に善人とは、謙遜で自慢せず、人に優しく、正直で、感謝の念を持ち、質素で人の絆を大切にし、約束に忠実で、しかも教訓を学び続けようとする人のことと言えます。そのような「善人」は、聖書の世界や当時のローマ文明に限らず、ほとんど普遍的に敬われるべき存在だと言えるでしょう。同時に、そのような人は少数で、しばしば困難な状況に置かれていることも事実です。それは世界の悪の力は強大で、常に善を呑み込もうとしているからです。もちろん、一人の人の中にも善悪双方の傾向がありますから、世の中を善人と悪人に二分するようなこともできません。

 

ここで注意すべきなのは次の点です。人に善悪双方の傾向があることは一般的に認められていますが、問題はその原因です。「人間は最初からそういうものだ」という考えに対して、聖書は複雑な答えをします。鍵は「最初」の意味です。それが、神の原初の創造という意味なら答えは「否」です。「そういうものなのだから仕方ない」とはなりません。悪は悪なのです。それに対して、「最初」が「生まれつき」を意味するなら答えは「然り」です。遺伝や環境がどうであれ、人は皆そのような状態となります。神は人をご自身のかたちに似せて創造され、神との交流の中で、神の善を世界に実現するように定められているからです。ですから前者の意味(本来)では性善説であり、後者(生まれつき)なら性悪説になります。この二重性を理解することが基本的に大切です。

 

「本来」人は神の善を地上に現わすべく造られました。「神のかたち」に似せられた存在ですから、その出発点に背を向けたこととから諸悪が生じています。いわゆる「原罪」です。しかし、その堕落にもかかわらず、「神のかたち」が全く無関係になったのではありません。堕落後であっても、殺人は神のかたちを宿す人に対する犯罪と見做されています。それにも関わらず人は罪を犯すからそれが悪なのです。しかもそれが生まれつきの状態でもあるという所が罪の深さであり、人間の悲劇でもあります。

 

「そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定め」というパウロの言葉も、そのような文脈でとらえる必要があります。これを社会的な犯罪に対する刑罰というのは無理があるからです。社会の犯罪には軽重があり、罰に軽重があるのは当然です。どんな罪でも死刑になるのではありません。モーセ律法でもそれは明確に規定されています。「死罪にあたる」と訳されているのは、直訳では「死に値する」という言葉です。「罪の報酬は死である」と別の箇所でパウロが語っていることで、当然、創世記冒頭の話が前提となっています。神が人に対して、「善悪の知識の木の実」を食べれば死ぬと言われたのに対して、それを食べれば神のようになれると考えた人は敢えてそれを食べました。その時に訪れたのは、まずは「霊的な死」でした。それは「刑罰」とも言えますが、むしろそれは必然の結果であったのです。

 

神との関係を破壊し、自分の中だけに善悪の基準を保持することが「霊的な死」です。すなわち、神との関係に基づく「本来」の姿を「生」とするなら、それを失った「生まれつき」の状態が「死」なのです。ですから、ここに挙げられているような罪を犯した場合は死刑になるということではなく、仮に文字通りには犯していなかったとしても、前提として神との関係が破壊されているのなら、それがすでに死です。様々な犯罪やその悲惨な影響は、肉体の死の有無に関わらず、霊的な死の結果にすぎません。パウロはこの消息について7章で「死のからだ」という表現によって詳細に論じていますので、そこで改めて学びます。ここでは、パウロが書いていることは誇張でもなんでもなく、人間の罪深さについて、ローマ人にも分かりやすい形で述べていることを確認しましょう。そして、それはローマ人に限らず現代の私たちにも当てはまることでもあります。これらの諸悪は、霊的な死の症状です。対処療法も必要ではありますが、なによりも霊的に生きることが根本的な解決です。そのために、キリストは来られました。そのキリストが生きて働いておられることこそ、最大の福音なのです。聖書を対処療法の処方箋としてではなく、キリストの福音の書として読んでいきましょう。