礼拝メッセージ要約

2023212日 「性の問題」

 

ローマ書 第13

1:26こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、 

1:27同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。

1:28また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。 

1:29彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、 

1:30そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、 

1:31わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。 

1:32彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。

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パウロの論旨はこうです。@人々が神を知っているのに神をあがめなかった A偶像崇拝に走った B神は人々をその情欲に引き渡された B性的な乱れが起こった Cその他あらゆる悪を行うようになった D悪を意図的に行うだけでなく、悪者に同意するまでになった

これらの順序は、かならずしも時間的なものだけでなく、同時多発的にも起こることであり、いわば@を中心とした同心円的に広がっている事象ととらえることができるでしょう。このうち、@とAはすでに見てきましたが、B以下との関連でもう一度確認します。

 

パウロはユダヤと当時のギリシャ世界での文脈で語っていますが、ここでは日本の歴史を振り返ります。日本でも、そもそも神は目に見えないもので、神の像なるものはなく、ただ神の降りた場所を聖別するだけでした。やがてその場所に建造物(神社)が作られるようになりましたが、像はありませんでした。後に仏教が渡来すると、仏像や進んだ建築物に見せられ、様々な像が作られ拝まれるようになりました。(もちろん、仏教自体そもそも像を拝むための宗教ではないのですが)。神社仏閣が参拝客のための施設となり宿場町が形成され、接待する遊女も集まるようになりました。古今東西、禁欲を説くことの多い宗教は同時に性的放縦の場でもあるのです。そのようなものが産業化すると一方では裏社会とつながり、犯罪の温床ともなります。そして反対にそれを国家が管理して搾取の対象ともなります。

 

もちろん、これは数ある堕落のパターンの中の一つに過ぎません。情欲に引き渡された人類は、あらゆる種類の悪に引き寄せられる可能性があるのですから。いずれにせよ、性的欲求は情欲の中でも最も強力なものの一つですから、多かれ少なかれ悪とつながることが多いのは事実です。ただし、この箇所でパウロが触れているのは同性愛だけで、異性間の姦淫その他の放縦についてではありません。このことについては、同性愛が異邦人社会では広く受け入れられていたのに対して、ユダヤ社会では厳しく扱われていたからだと言われています。特にギリシャの一部の世界では男性の同性愛は異性愛よりも高貴なものだと思われていました。モーセ律法を持つユダヤ人がそれに反発したのは言うまでもありません。

 

このユダヤの流れは、パウロだけでなく、当然、後のキリスト教にも引き継がれました。今日でもカトリック、正教、保守的なプロテスタント教会ではそれを維持しています。一方、性的マイノリティ(少数者)の問題は非常に大きくなっており、キリスト教リベラルでは、これを人権の問題としてとらえ、同性愛者の権利を尊重すべきだと主張する人も多くなっています。今日では、宗教の枠を超えて、いわゆる保守対リベラルの対立の様相を呈しており、非常に大きな対立の要因となっています。その中で、当然クリスチャンであっても見解の一致を見ることは困難な状態です。最終的には個々人が自分なりの判断をするしかありませんが、感情的・感覚的な要素が多く独断的になりやすいので、ある程度整理しておくことが大切です。

 

第一に、いわゆる性的マイノリティには様々な種類があり(LGBTQAその他)、一律に論じることができません。大きく分けると身体的機能の問題、性的志向の問題、性的自認の問題となるでしょう。このうち、身体的機能の特殊な人については完全に先天的なものなので問題とはならないでしょう。性的自認の問題は複雑です。身体と異なる性を心で感じているという時、その心で感じている性とは何なのか曖昧だからです。男が女装(多くの女性が着ている服の意。それも流動的ですが)好きなだけでは、心が女だとは言えないでしょう。性的志向との組み合わせとなるとさらに複雑になります。一旦、身体的な差(染色体の形体の差)から離れると、客観的な指標がなくなり、主観的な論議になってしまうのです。

 

この中で、パウロが触れているのは同性愛なので性的志向の問題(の一部)となります。まず、性的志向は持って生まれたものなのだから承認されるべきだという主張はどうでしょう。まず、そのような承認は無条件には成立しないことは明らかです。性的倒錯とみなされる指向は存在します。本人が同意していても年齢制限がある場合も存在します。同性愛がそれらと異なるかどうかは、論理的というより社会的に、しかも暗黙のうちに決められていることがらです。(時代の変化という発想自体がそれを物語っています)。また、同性愛は、先天的な志向だけでなく、後天的な環境によって生じることもありえます。しかし、脳の機能など先天的に同性に対して性的志向を持っている場合、それが当人にとっての「自然」であるという解釈も存在します(その「自然の用を捨てる」ことの方が不適切との意)。

 

この性的志向の問題は、より根本的に「性的関係は生殖から独立しているのか」という問題に関係します。同性愛が生殖から独立しているのは明らかですが、異性愛も生殖に限定されているものではありません。それでも、カトリックのように、それをできるだけ限定しようとし、夫婦間であっても(積極的)避妊を避ける人たちもいます。しかし、それは保守的クリスチャンであっても主流とは言えないでしょう。(夫婦の性的関係に年齢制限をかけろと主張する人はほとんどいないでしょう)。一旦、性的志向が生殖から独立すると、当然身体的区別からも独立し、結局、性的自認も自立していく流れになるのです。だからといって、生殖に限定することはできないだけでなく、そこに人間の特性があるという所が問題を難しくしています。これは、先進国の人口減少と途上国の人口爆発という問題にも関連してきます。

 

そこで、改めて問題の根本を見ましょう。それは「情欲に引き渡された(その奴隷となった)」という点です。その情欲がどのようなものであれ、コントロールできない状態であるという所が問題なのです。ですから、それを同性愛の問題に限定するのは意味がないでしょう。また、情欲のコントロールは禁欲の問題だけではなく、他者の情欲をコントロールしようとする支配欲もありますから、それらも含めて、人類は罪の奴隷であるという厳粛な事実を認めることが出発点となる他ありません。そして、そのような罪の奴隷である私たちを解放するためにキリストは来られたのです。