礼拝メッセージ要約
2023年2月5日 「偶像礼拝について」
ローマ書 第11回
1:18というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
1:19なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
1:20神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
1:21というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
1:22彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
1:23不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
1:24それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
1:25それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
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前回に続いて「偶像礼拝(崇拝)」の問題について考えます。前回のポイントは、知的な議論以上に欲望の問題だということでした。この「欲望」が様々な形をとるところが曲者で、それがローマ書の重大なテーマでもあります。詳細は該当箇所で扱うとして、ここでは、全体像の概略と見ていきます。
23節で、神の栄光を人間や動物に似たものに代えてしまったとありますが、当時の世界でまず問題となっていたのが「人間」すなわち皇帝や王を「神」として崇拝することでした。このような崇拝は当然強制力を持っていますから、それに逆らうことは、しばしば死を意味しています。いわば政治的偶像崇拝はもちろん当時に限ったことではありません。独裁者が自分を神と称するかどうかは二次的なことで、特定の個人や集団が無制限の権威を持っていると考える限り、いつでもどこでも起こることです。権力者が自分を神の下にあると考えず、神と同等とあると思い上がるわけですが、このような場合、しばしば権力者が倒されるまでは状況が良くならず、殉教者を生み出すことになってしまいます。基本的には政治的な現象ですから、宗教を超えて幅広い問題となります。
この場合、「欲望」はもちろん一義的には権力者が持っている権力欲です。しかし、そのような絶対的権力者を生み出すのは、群衆の欲望でもあります。古代のイスラエルが最初に王を求めた時、神はその危険性について忠告されましたが、結局、民衆の欲、すなわち他国のような王を持ち、それにすがりたいという欲がまさって王を作りました。20世紀でも、非常に民主的なワイマール共和国からナチスが出てきたのは周知のことがらです。人間は人間を崇拝したいという欲望を持っているというというのが出発点です。その欲望は様々な形をとります。いわゆる「芸能アイドル」(意味は偶像)は、政治家のような強制力はないものの、その影響力は時に政治家を上回ります。資本家もアイドルになることがあります。手段は異なっても、支配したい人と支配されたい人が結びつく所に偶像崇拝は登場します。
支配する側と支配される側があるといっても、実際、両者共に「欲望」に支配されていることに変わりはありません。支配する側は、自分を大きく見せたい(究極的には「神」になりたい)という欲であり、支配される側は、「長いものには巻かれろ」という保身術もあるものの、根底には力あるものに埋没し、自己を失うことへの渇望があります。自己を失うというのは、責任の放棄という安堵感や、酒に酔うような快楽を伴うものであり、それが「大義」のためともあれば、人からも称賛されるものですから、その「一体感の高揚」は恐ろしいほどの中毒性を持ちます。スポーツは、そのような人間の欲を認めつつ、社会を破壊しない程度にコントロールする手段として編み出されたものでしょう。
このように様々な形がある中で、言うまでもなく最も強力なものはやはり宗教でしょう。どんな政治体制よりもある種の宗教の方が長く続いていることからも明らかでしょう。宗教でも、教祖や団体の長が神とあがめられるものもありますが、多くの場合、自分を神の「代理」と称します。「自分は神ではないから偶像でもない」と言いながら、実質的には宗教の権威で人を支配します。支配される側は、自分は指導者を通して神を崇拝していると思っていますが、それは結局「自分を失った」状態であることにかわりありません。「ひとりの神の前にひとりの人として立つ」のでなく、ただ指導者に追従し、集団に埋没するならば、それは結局のところ偶像崇拝なのです。
このような偶像崇拝の最も高度な形が、ユダヤの律法主義と言えるでしょう。それが高度なのは、まず神自体は徹底的に見えないものとされているからであり、神とのつながりは律法という言葉(情報)を介してのみに限定されているからです。この場合、無形の神は情報化されているので、形あるものを崇拝することはなくなります(もっとも律法の巻物をかついで行進するなどという風習もありますが)。そして、彼らは形ある偶像を崇拝する異教徒を嫌悪します。しかし問題は、情報化された神は神ではないということです。彼らの信仰とは神の情報に基づいて生活を律することですが(イスラム教も同じ路線でしょう)、そもそも律法の実践、すなわち情報の適用には情報の解釈が必要ですから、結局その解釈者が神に代わって権威を持つことになります。それが律法主義という偶像崇拝になっていきます。これはローマ書の大きなテーマですので該当箇所で扱うことになります。
最後に、最も原始的な偶像崇拝も見ていきます。鳥や獣など、被造物を創造者(神)の代わりに拝むというものです。もちろん、一部には特定の物品(像など)そのものが神である場合もありますが、前回見たように、その物品を「通して」神が現れているという考え方が多いです。その場合、拝んでいる人は、あくまで背後の神を拝んでいるのだと主張するでしょう。イスラム教のように、そのような物品を極限まで排除する場合は別として、キリスト教でも、様々な物品(十字架や聖画など)がシンボルとして存在しています。ですから、一般化すると、シンボルに過ぎないものと、シンボルが指し示しているものを混同することが偶像崇拝であると言えるでしょう。これは、人の内面に関わることなので一見してもわかりません。蛇の像を拝んでいる人が、実は蛇に象徴される生命力を崇拝しているということはよくありますし、十字架をかざす人が、神ではなく十字架という物品に力があるかのように思っている可能性のあるのです。(聖書に手を置いて祈るという習慣も害はないとは言え、奇妙なものです)。
この問題は、結局はじめに学んだ「情報」と同じ問題となります。すなわち、言葉の代わりに「目に見えるシンボル」が支配いている状況です。ユダヤでも「律法主義」全盛になる前には神殿中心の宗教生活がありました。神殿も神から自立し、シンボルとしての立場を超えるならば、立派な偶像崇拝となり、しかもそれは、神の名のもとに行われますから、恐ろしい悪影響を及ぼすことになるのです。ですから私たちは、神の前にへりくだり、言葉やシンボルに囚われ、またそれを所持して力を得たいという誘惑から解放される必要があります。そして、霊の目が開かれ、言葉やシンボルの先におられる神ご自身とつながらなければならないのです。