礼拝メッセージ要約

2023122日 「異邦人世界の罪」

 

ローマ書 第10

1:18というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。 

1:19なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。 

1:20神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 

1:21というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。 

1:22彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、 

1:23不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

1:24それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。 

1:25それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

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ここまで、福音についての導入的な説明がなされましたが、ここからは一転して「福音なき世界」についての話になります。「福音の内には神の義が啓示されている」とありましたが、それと対照的に、福音なき世界には「神の怒りが啓示されている」というのです。「神の怒り」とは、現代人にはピンとこない表現かもしれませんが(あるいはカルトを連想するかもしれませんが)、それは天変地異や祟りのことではなく、今回の箇所の後半にあるように、「神が人々を、その心の欲望のままに引き渡された」ということです。神が人に対して「どうぞ、お好きなように」と言われたようなものです。この問題に進む前に、別の重大な問題があります。なお、ここの箇所は偶像礼拝に沈んでいる世界のことですから、異邦人世界についてだと考えてよいでしょう。

 

その重大な問題とは、異邦人も神を知っているはずだとパウロがここで主張していることです。知っているはずなのに神を無視し偶像を礼拝しているのだから、弁解の余地はないというのです。(知らなかったのなら弁解もできるでしょう)。この主張はパウロ独自のものではなく、いわゆる中間時代に書かれた「知恵文学」などにもある考えです(外典:知恵の書13章など)。これは、ユダヤ人がヘレニズム(ギリシャ)世界の中で生活する中で、その思想と対決し、吸収していく中で、「神」を、ユダヤ民族に限られない、より普遍的な存在として考えるようになったことによると思われます。この「普遍的な神」を前提とした議論には、三つの反論があります。一つ目は、ユダヤの一部にある、そもそも「異邦人は神を知ることなど不可能だ」という考え。二つ目は、神は一つではない(文化、宗教ごとに存在している)という考え(多神教)、三つ目は、「神は存在しない(あるいは認識できない)」(無神論・不可知論)という考えです。このうち、異邦人は二つ目か三つ目の反論をするでしょう。

 

このことについて神学的、哲学的な議論を始めると、決して終わることはないでしょう。そもそも議論するには、反論の可能性を与えなければ意味がありませんから。パウロも、ここで議論によって説得しようとはしていません。その意味では一方的な主張ではあります。それに対して、私たちはどう反応するのかが問題となります。そこでパウロの言葉を丁寧に見ていきましょう。まず、神について「知りうること」は明らかだとあります。では、その知りうることとは何でしょう。「神の目に見えない本性」とありますが、直訳すると、単に「見えない事柄」です。異邦人も、目には見えない事柄(すなわち、神の永遠の力と「神性」)を「知っている」はずなのです。それは「被造物によって知られ」とありますが、このあたりは訳すのが難しい所です。直訳では「創造の時以来、被造物において理解されているところの、神の不可視(神の永遠の力と神性)は、はっきりと認識されている」というような内容です。ここでのポイントは「神は見えない」という部分です。例えば、一般の日本人が「本来、神は不可視であるはずだ」という認識があるのかということが問題となります。個人レベルではいろいろな答えがあるでしょう。多くの人は、「神はいるとしても、はっきりとはわからない。いるとするならば、とりあえず、目に見える何かを神の現れとみなす」といった感じでしょう。「現人神」という言葉でさえ、本来は見えない神が、人として現れたというニュアンスですから、やはり、神は原点では見えないと考えられているようです。神道においても、そもそも神像はなく、神が現れた場所を聖別するというスタンスでした。

 

そもそもは見えないとしても、そこに神の永遠の力と神性が認められるという点はどうでしょうか。まず、神の永遠の力という言葉です。多神教の世界では、それぞれの神の力は限られています。しかし、その力が「期間限定」という話はあまり聞きません。ただし、天地創造した神々は、その後は何もしていないという考えはあります。西洋でも「理神論」というものがあり、世界は神によって創造されたが、その後の世界は自律して動いていると言います。いずれにせよ、「いくら神様でも、そこまではできないだろう」という考えは、多くの人が持っているようです。ここに深い問題があります。というのは、このことは、そもそも「神」という言葉で何を言おうとしているのかに関わるからです。神を「全能者」の意味で使っているのか、そうではないのかということです。多神教では「全能者」は不要でしょう。しかし、多くの神々(限定的な力をもつ存在)の総体(全体)を考えれば、それは何らかの意味で時間(そして空間)を超えているでしょう。

 

言い換えると、人間を含めたこの世界は、それを超えたものによって基礎づけられているのかどうかという問いに集約されます。答えがイエスであれば、宗教の種別はともかく、ある意味ではパウロに賛同することになります。ノーであれば、無神論(唯物論)です。(もちろん、世の中には無神論者を自称する人はたくさんいますが、厳密にそうであるには、実は非常に高度な知的闘争が必要です。つまり、一般の理解に反し、無神論は、有神論の否定という形をとるのです)。もっともパウロは、ここでは厳密な無神論については扱っておらず、一般的な宗教観を問題にしています。それは、神について語りながら神でないものを崇拝しているという自己矛盾に陥っているのではないかということです。(すなわち偶像礼拝の矛盾です)。そして、その矛盾は、知的な理解の不足によるのではなく、もっと根本的な理由によるのです。それは、聖書全体の理解に関わることで、例えば創世記冒頭の記事のような内容です。パウロはここではその話はしていませんから、やや性急に論を進めている感じがしますが、偶像礼拝は本質的には知的な問題というよりも、「欲望」の問題だということが、ここでの論点です。

 

偶像礼拝が人間の欲を満たすためのものだというのは、分かりやすい話でしょう。小銭を投じるだけで願いが叶うというのでは、神様は格安の自動販売機となってしまいます。これを逆手にとって、高額な寄付を求める団体もありますが、そちらは、団体上層部の欲望を満たすだけのものです。しかし、人間の欲は、そのような単純なものに限りません。それは、限りなく広い分野に関わることであり、その真相はローマ書のテーマそのものですが、この章では、まずは、異邦人世界に見られる、分かりやすい罪について触れています。そして、ポイントは、そのような数々の欲望を満たすために、人々は神を矮小化し利用していること、そして、そのために、神は、人々が自分たちの欲望に支配されることを許されているということ、それがすなわち、神の怒りであり、あまねく地上に現れているということです。その状態から私たちを救うためにキリストは来られました。それが神の福音なのです。