礼拝メッセージ要約

2023122日 「パウロの願い」B

 

ローマ書 第9回

1:13兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。 

1:14私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。 

1:15ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。

1:16私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 

1:17なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。

 

 

前回、福音は信じるすべての人に救いを得させる(救いの中に入れる)神の力であることを読みました。そして、「救い」には広く深い内容があることと、神の「力」とは十字架という「弱さ」に現れていることも学びました。

今回は、それらの事柄の土台となる部分について学びます。それは、「義」と「信仰」という言葉によって指し示されている事柄です。

 

まず「義」という言葉から見ましょう。これは、なかなか意味がつかみにくい言葉です。単純に言えば「正しいこと」ということですが、では具体的に何が正しくて、何が正しくないのかが問題となります。正義という意味にとっても、人も国も自分の正義をかざして争うので、何が正義なのかというと、その時、その状況での流動的な判断をするしかありません。普通は伝統や習慣を基準にするでしょうが、それも変化し流動的です。究極的には神の前に正しいのかどうかということになるでしょう。もちろんそれは、ある意味さらに難しいことになるかもしれません。

 

言うまでもなく、ユダヤ社会での「義」の基準はモーセ律法です。異邦人からすれば、それはユダヤ民族の伝統に過ぎませんが、彼らにとっては、それが神の基準です。従って、「義人は律法によって生きる」のが当然の答えになります。ある意味、常識的な考え方です。日本人も、日本の法律や伝統、習慣に従って生きるのが正しいのであって、そうでないものは悪者とみなされます。ここで大切なのは、法律と伝統・習慣がセットになっていることです。法律の条文だけですべてのことを判断することなど不可能ですから、当然「不文律」(すなわち伝統や習慣)も大切になります。その中には「法律的には許されていても道義的にはどうなのか」という、よくある問いもあります。ここに「義」には法律的な正しさだけではなく「道義」という面があることがわかります。

 

新約聖書に登場する「義」と訳されている言葉は、ヘブライ語では「ツェダカー」ですが、ユダヤ世界では、これは「施し」も意味しています。法律上は必ずしも要求されていない慈善が「義」であるというのは、それが道義にかなうからです。そして、それが神の喜ばれることであるのは言うまでもありません。ユダヤ世界が律法の世界であると言っても、法律上の正しさ以上に「道義」が求められていることは大切なポイントです。そして、道義は法律のように厳密に固定できるものではなく、まさに「道」というように固定化されないダイナミックなものだと言えるでしょう。

 

以上は「義」の一般的な意味であり、「人の義」は「人の道」と呼ぶこともできるでしょう。この「人の義」に対して、ここでパウロが述べているのは「神の義」です。これも聖書の中心テーマですが、難しい言葉です。直訳すると「神に属する義」です。これを単純に神の前での人の義ととるのか、もっと根本的に文字通り神ご自身の義ととるのかによって話が変わってきます。結論を先取りすると、それは両方を意味するのですが、その順序が大切であり、まず神ご自身の義があり、それが人を義とするのです。このプロセス全体を告げるのが福音に他なりません。

 

義が法律を超えた「道」であるとすると、神の義は神の道ということもできます。神は秩序の神でもありますが、それは単に規則や法則に還元できるものではなく、それよりも広い「道義的」にも正しいお方です。それがすなわち、あわれみ深く、慈しみ深いということです。正義の神は公正に裁かなければなりませんが、画一的、機械的に裁くのではなく、充分に情状を考慮されます。これは旧約の世界でも十分に見られます。しかし福音はそれに留まりません。義には施す(すなわち無償で与える・譲渡する)という要素があるのですが、それが単なる温情なのか、それ以上なのかが問題です。福音とは、この神からの無償の譲渡の内実が、なんと神のひとり子だということです。神がそこまでして「世」(私たち)を愛すというのは、正しいことなのでしょうか。それは一見して不釣りあいです。この世の不幸、不条理の大きさに対して神のひとり子のいのちは大きすぎると感じるのか小さすぎると感じるのか、それがこの問題の肝となります。

 

自分の罪を自覚し、神に対して負い目がある人にとっては、この「神のひとり子が与えられた」という事はとてつもなく大きいものです。そして、それが神の道であるというのであれば、私たちはそれに対して、ただ感謝し賛美をささげることしかできません。このような応答、すなわち神の道にたいして「はい」と答えること、それがイエスの名を呼ぶということです。言い換えれば「信仰」です。ですから、神の道(神の義)に応答することが信仰であり、そのような応答をする人は、神の道に引き入れられます。すなわち、その人が義とみなされるということです。言い換えると、神の恵みという義に入れられた者が義人(義とされた人)ということです。このことを正義の視点から見れば、義とされたというのは罪が赦されたということになります。この罪の赦しとは、人間の情状を考慮して神が温情判決を下すということではなく、神がひとり子を与えたという義がすなわち赦しであるということです。ですから、義とされたということは、赦された気分になるという主観的なことではなく、神の義という、本来客観的な事実に基づいている出来事なのです。自分自身ではなく神・キリストの出来事を基準というのがパウロの語っている「信仰」です。

 

この神の義は「信仰に始まり信仰に至らせる」とあるますが、直訳すると「信仰」から出て「信仰」に入っていくという感じです。信仰は「真実」という意味もありますから、神の恵みの道がすなわち神の真実と言えます。神のひとり子が与えられたのはそこからでたことです。そしてその恵みに入れられるのが私たちの信仰であり、そこで人は義とみなされます。義とされた人は神の道に導かれます。すなわち、恵みの道を歩むのですが、それはさらなる神の道(義)が現れることを望む道でもあります。そして、その神の義とは神の真実であり、具体的にはキリストご自身です。そのキリストの恵みが現れることが神の義であり、「私たちを通して」現れるとすれば、それは私たちが義とされたということです。そして、それこそが同時に私たちの信仰の歩みなのです。この歩みは一カ所にとどまることのない「道」です。この道は、恵み、義、信仰がひとつとなって成長していきます。信仰から信仰へと、らせん階段を上るかのごとく進んで行くのです。