礼拝メッセージ要約

2023115日 「パウロの願い」A

 

ローマ書 第8回

1:13兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。 

1:14私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。 

1:15ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。

1:16私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 

1:17なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。

 

 

前節で読んだように、パウロはローマの信徒たちに霊的な賜物を与え、信仰の交わりによって神からの励ましを受けるために、なんとかしてローマに行こうと考えていました。今回の箇所では、そのことについて、彼らから「いくらかの実を得ようと思って」いると表現しています。そして、それは、他の国々の人から得たのと同様であるとも言っています。パウロのこの「実」という言葉が具体的に何をさしているのかはわかりません。パウロが彼らに賜物を「与え」、共に「交わり」、ここでは彼らから「受ける」とありますから、全体として、信仰による霊的なやりとりを指していると考えてよいでしょう。パウロはこのことを切望しているのですが、今のところそれが妨げられていることを、ローマの信徒たちにも知って欲しいと書いています。つまり、訪問の熱望は、単なる挨拶ではなく重要なことなのです。

 

それは「返さなければならない負債を負っている」からです。そして、その負債の返済とは「福音を伝える」ことです。その負債はギリシャ人や未開人等、皆に対するものなのですが、この負債は何を意味しているのでしょうか。いったい返さなければならない「借り」が何なのかは書いていません。パウロがローマにいる人々から実際に何かの物品を借りていたとは考えられません。しかも、あらゆる人々からの借りだと言うのです。「あらゆる人々」ですから、社会と言い換えることも可能でしょう。私たちはだれでも社会の中の一員として生かされているのですから。パウロの場合であれば、ローマ帝国という枠組みの中で、ローマ市民としての権利を活用することによって、使徒としての活動が可能となっています。これは、この世界の物質的な側面によって、宣教という霊的なことがらが支えられていると言えるでしょう。パウロは別の箇所で、霊的なものをユダヤ人から受けた異邦人は、物質的なものでエルサレムの貧しい人たちに奉仕すべきだと述べています。霊的な借りを物質で返すという例です。今回の箇所は、その逆のパターンと理解することができるでしょう。

 

このことは、私たちにとっても重要な真理を示しています。それは、福音伝道とは、高い所から人々に教えるという、いわゆる「上から目線」でなされることではなく、同じ立場にいる人々同士の物質的なものと霊的なものとの交換であるということです。この世は物質的なものばかりが優先されますが、霊的なものが必要です。逆に物質のない単なる霊も神の創造された世界ではありません。両者が必要なのです。私たちは皆、社会から物質的な恩恵を受けていますから、通常は物質的な形で恩返しをすることが期待されていますが、それ以上に霊的なものをもって借りを返すことが求められていると言えるでしょう。

 

この霊的な恩返しとは、具体的に言えば「福音を伝える」ということです。

ここで、あらためて「福音を伝える」ということの意味が大切になります。しばしば「福音伝道」というと、キリスト教のイロハを未信者に伝え、信仰の勧めをすることを考えます。しかし、パウロはここではローマの信徒たちに向かって語っているのですから、福音をもっと深い意味で捉える必要があります。パウロが言う「福音」は、このローマ書で語っていること全体を指しているのであって、決して入信のためのイロハではありません。ローマの信徒に限らずクリスチャンである私たち全員も福音を聞く必要があるのです。今私たちがローマ書を読んでいるのもそのためです。

 

同時に、パウロは福音を伝えるために、手紙を書くだけでなく実際にローマに行こうとしていたことも重要です。それは、前節で読んだ「霊的な賜物」「信仰の交わり」などの実現のことですから、これらの霊的な場の実現が「福音が伝わること」と同義であることが分かります。「福音」は言葉のメッセージ(すなわち情報)であると同時に、霊的な現実でもあるということです。情報だけで構成されている仮想現実ではなく生(なま)の「現実」だというところがポイントです。もちろん、ローマの信徒たちは、パウロ抜きでも霊的な現実を体験していたでしょう。今日の私たちも同様です。このことについては前回学びました。いずれにしても、福音は単なる情報ではありません。

 

この「霊的な現実」を、パウロは「信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」と表現しています。それは「力」(もちろん霊的な力)、すなわち霊的な働きそのものなのです。ただし、それは一般的な神の力ではなく、ユダヤ人から始まり異邦人に及ぶ、具体的な歴史の中に働いている力です。「救いを得させる神の力」とありますが、直訳すると「救いの中に(導く)神の力」となります。私たちが救いを得るというより、私たちは救いの中に引き入れられるということです。その「引き入れる神の力」のことを福音と呼ぶのです。そこで、改めて「救い」の意味が大切になります。ローマの信徒たちが、これから救われるために福音が必要だなどということはあり得ませんから、ローマ書を通して「救い」の全体像を学ぶことが必要です。この「救い」という単語は、通常の「救出」という意味ですから、何から救出されてどうなるのかということがここで問題となります。それはローマ書だけでなく聖書全体のテーマですが、代表的な表現をあげると、「堕落した世から救われて神の国に入る」「神の怒りから救われて神の祝福に入る」「罪から救われて義とされる」「律法の支配から救われて恵みの支配に入る」などがあります。そして、その救いの対象も個人だけでなく様々な集団、社会のシステム、そして民族、さらには自然界全体にまで及んでいます。このような広く深い「救い」について学び、さらにそれを実現する神の力を知る事が、すなわち福音を知るということになります。

 

この豊かな内容を持つ福音についてパウロは、まず「義」というキーワードを中心に話を進めていきます。「なぜなら福音の内には神の義が啓示されている」からです。そして、それが「信仰」と結びついているというのが当面のテーマとなります。ですから必然的にこの「信仰」が何を意味しているのかも重要となります。このあたりを押さえつつローマ書を読んでいくのですが、まずは、福音は神の力であるという原点をしっかり押さえましょう。同時にそれは「神の力」であって、「この世の力」とは根本的に異なっていることも忘れてはなりません。すなわち、神の力は十字架によって現れたのであり、それは、この世の基準からすれば弱さとみなされるものです。この世の力と神の力は根本的に異なることを理解しなければなりません。人にとっては弱さでしかないキリストの十字架の死が神の力であり、その力こそが人々を救いに導きます。ですから、福音は徹頭徹尾「十字架の福音」なのです。ローマ書が、手紙の形態をとる「パウロによる福音書」と呼ばれる所以です。