礼拝メッセージ要約

202318日 「パウロの願い」

 

ローマ書 第7回

1:8まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。 

1:9私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、 

1:10いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。 

1:11私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。 

1:12というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。

 

パウロは冒頭の重大な挨拶に続いて、神への感謝から本文を始めます。その感謝は、ローマにいる信徒たちの「信仰」が全世界(ローマ帝国のあらゆる場所の意)で知られていることによります。ローマ帝国でローマについて知らない人はいなかったでしょうが、それは、当時の政治、経済、軍事、そして様々な技術の中心だったからであって、すべて地上の(しかも一時的な)事柄に過ぎません。それに対して、パウロは信徒たち(それもそれほどの大人数であったとは思われない)の「信仰」が、帝国中に伝えられる最も価値のあるものだと見なしています。この「信仰」は、後に帝国中で大きな迫害を受けるものとなりますから、改めて私たちはこの「信仰」がどのようなものなのか、この手紙全体からしっかり受け取らなければなりません。

 

そのローマにいる信徒たちに向かって、パウロは自分の思いをはっきりと表明しています。それは、なんとかしてローマに行きたいということで、いつか神のみこころにより、道が開かれて(良い旅ができての意)、信徒たちと会いたいと切に祈っているのです。パウロは後にローマに行くものの、そのローマへの道が通常考えられる「良い旅」からは程遠い、囚人としての旅でした。祈りは聴かれるのですが、その形は神の主権のもとにあることを思い出させます。

 

パウロがそこまでしてローマに行きたいのには理由があります。それが今回のテーマです。第一に「御霊の賜物を分け、彼ら(ローマの信徒たち)を強くしたい」というものです。手紙による情報伝達だけではなく、「何か」を分け与えることが重要であったということです。この「何か」について注目しましょう。新改訳聖書で「御霊の賜物」と訳されている言葉は、直訳すると、「ある霊の賜物(単数)」というものです。定冠詞はありませんから、御霊(聖霊)とは限りません。「聖霊という賜物」をパウロが与えるわけではないのは言うまでもありません(聖霊を与えるのは神あるいはキリストです)。そもそも、帝国中に信仰が知れ渡っているほどの信徒たちですから、彼らに聖霊がないはずはありません。

 

ここに、ひとつの注意点があります。まず、だれでも聖霊によらなければイエスを主と告白できないという原則です。ある人たちは、他のクリスチャンに対して、「信じてはいても聖霊はまだだ」などと言うことがありますが、そのようなことは慎まなければなりません。同時に、クリスチャンであっても、さらに霊的なものを受け、強められる必要があるということも大切な真実です。そして、霊的なものは、情報によるだけではなく、現場の出来事を通して与えられることもあるのです。

 

パウロがここで言う「ある霊的な賜物」とは何なのか具体的は書かれていません。ですから、私たちとしては、この手紙に書かれてあること全般が具現化されるために必要な霊的賜物と捉えて良いでしょう。情報(言葉)は、そのままが現実なのではなく、霊が吹き込まれて活きた現実となります。よく言われることですが、「みことばと聖霊」がひとつなのです。つまり、福音と聖霊の働きです。パウロはこのことにおいて成長することを望んでおり、そのためには何とかしてローマに行きたいと祈っているのです。

 

それでは、霊的な事柄は、実際、その現場にいなければ起こらないのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。私たちは遠隔地にいる人々のために祈ることができ、その遠隔地において霊的な祝福が与えられることも可能です。そもそも、私たちは聖霊の自由な働きに制限を加えるべきではありません。それではなぜパウロはローマに行かなければならないのでしょうか。理由はいくつもあるでしょうが、ここでは、ひとつのことが書かれています。それは「互いの信仰によって、共に励ましを受けたい」というものです。新改訳聖書では、前節(賜物を与えたいこと)と今節(共に励ましを受けたい)が、「と言うよりも」という言葉でつながれているので、前節よりも今節を優先しているような印象を与えますが、原語には特別そのようなことはなく、両方の節でひとつです。

 

「励ましを受ける」のはもちろん神からです。お互いに自分の信仰の話をして(人間同士で)励ましあうのとは違います。あなたがたの間にいて(一緒にいる場で)、お互いの信仰を通して、神からの励ましを受けるのです。この励ましは、前節のことがらにつながっています。すなわち、霊的な賜物を分かちあうことによって、賜物を与える方(この場合パウロ)と賜物を受けて力を得る方(ローマの信徒)両者が、そこにある神の働きを経験することによって励まされるのです。このことはもちろん、逆のパターン(ローマの信徒がパウロに賜物を与えること)を排除するものではありません。それは大いにあり得ることですが、それは今のところローマ側に属していてパウロが感知することではないので触れていないのは自然なことでしょう。

 

このことから分かるのは、パウロが語る「信仰」とは、教義の理解と受容ではなく、聖霊の働きがあらわれる「管」「チャンネル」のようなものだということです。そもそも「信仰」自体が聖霊の働きによって生まれるのですから、それは当然のことです。この働きに接する時に私たちは励まされます。ここでの「励まされる」とは「強く勧められる」というような意味で、神のことばのもとで、共に確信を持つことを意味すると思われます。ですから、「力を受ける」と同義だと考えて良いでしょう。一時的な感情の盛り上がりではなく、神のことばがリアルに働くことの経験ということができます。パウロはこのことを求め、ローマに行こうと願っているのです。

 

今日、生身のパウロが私たちの所に来ることはありません。手紙があるだけです。しかし、聖霊は今も働いておられますから、その聖霊の場にいることによって私たちも「励ましを受ける」ことが可能です。もちろん、それは人間が勝手に作り出すことはできず、神の主権のもとにあります。同時に、それは私たちがパウロ同様、祈りの中で切に求めるべきことでもあります。みとこばと聖霊がひとつである場を願う私たちは、この手紙をさらに真剣に読み、熱心に祈るものでありたいと思います。