礼拝メッセージ要約

202311日  ローマ書 その6「父なる神と御子」

 

1:1神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、 

1:2――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、 

1:3御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、 

1:4きよい御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。 

1:5このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。 

1:6あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。――このパウロから、 

1:7ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。

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パウロの挨拶のまとめです。初回に学んだように、この複雑な一文は、パウロからローマにいる信徒たちへ、恵みと平安がありますようにという、通常の挨拶の骨格に、パウロの使命から始まり、様々なキーワードの説明が加えられていくという構成となっています。

 

まず、恵みと平安を祈ることについてです。これ自体は、一般的によく行われることではありますが、もちろん、その内容については、一般以上のものが秘められています。「恵み」とは、こちら側の条件にかかわらず受け取ることのできる「良いもの(事)」ですが、その「良いもの」が何なのかがまず問題です。そして、その良いものを無条件に受け取るというのは、実際にどのような事態なのかも重要です。もう一つの「平安」もキーワードです。ユダヤ人にとっては「シャローム」という言葉で、もちろん挨拶の表現でもありますが、より積極的なニュアンスがあり、「平和で繁栄している状態」を指すと言われています。そして、この言葉についても、それが単に社会の状態のことなのか、それとも、「神との平和」のことなのかが問題となります。

 

この「恵みと平安」が、ローマにいる「神に愛され、召された聖徒たち」の上にありますようにという祈りですが、その恵みと平安の出どころが大問題です。通常の挨拶であれば、それは当然、神からのものということです。しかし、パウロは「父なる神と主イエスキリスト」からと言っています。これは、唯一神信仰を死守するユダヤ人にとって衝撃的な言葉です。父なる神とキリストが並列して述べられているというのは尋常ではありません。

もちろん、パウロもユダヤ人として唯一の神を信じていますから、当然、父なる神とキリストとの関係が大問題になるわけですが、パウロ自身(そして他の初代教会の教師たち)はこれについて組織的な解説をしておらず、ただ、当然の事実としてのみ提示しています。それで、後の時代になり、このことが大きな議論を招くことになったのは必然でした。これは私たちにとっても重要なことなので、ここで改めて整理しましょう。

 

この問題について最も簡便かつ安易な見方(そして排除される見方)は、神とキリストを同列には見ず、キリストを神から一段下にある存在と見做すものです。その場合、パウロの祈りを「父かる神から(神ではないがそれに準ずる)キリストを通して」というように解釈します。では、この一段神より劣るとされるキリストとは何者なのかという問いに対して、天使であるなど複数の答えがなされますが、どれも聖書から支持されるものではありません。しかも、それでは、キリストによる罪の贖いがまったく無意味になってしまいます。

 

そのため、キリスト(神の御子)は、少なくとも神と同等の存在と考える他はありません。(ここに至る議論も複雑で重要なのですが、ここでは省略します)。必然的に神は唯一でありつつ「父と子」と言われるのはどういうことなのかという問いになりますが、それに進むためには、まず前提として「子」であるキリストをどう捉えるかということを考えなければなりません。というのは、私たちは単に「キリスト」ではなく、「主イエスキリスト」を語っており、「イエス」は間違いなく一人のユダヤ人であるお方に付けられた名前だからです。

 

そこで、私たちは「イエス」という人と結びつけられた「キリスト」を語ることになり、言い換えると、神としてのキリストと人としてのキリストがひとつである存在について語ることになります。この「神であり人であるキリスト(キリストの神性と人性)」を論じるのが「キリスト論」と呼ばれている分野です。これが、初代教会の時代から、次第に「キリスト教」なるものが形成されていく過程で、まず最大の問題となったことであり、その重要性は今日も変わりません。

 

この「キリスト論」には様々なものがありますが、すっきりとした論理以上の逆説的な真理をかかえています。そのため、間違っているとして却下されたものの消去法とならざる負えない所がありますが、その骨格を捉えることは重要です。却下されたものの中で最有力なのは「養子説」というものです。養子説の概略は次のようなものです。「イエス様は一人の人間だが、聖霊が下り神の子(養子)となった」というものです。その場合、イエスキリストとは、人としてのイエスに神の霊が与えられている存在だということになります。常識的な考えのようですが、退けられた理由はこうです。最大の問題点は、この場合、十字架で死んだのは、単なる人としてのイエスだということになります。彼がどんなに聖霊に満たされていたとしても、一人の人間の死が全人類の罪の贖いにつながるというのは、どう考えても無理があります。キリストが私たちの代表として死なれたというのは、もちろん、彼が人であるから可能なのですが、その死に無限の価値があるのは、彼がひとりの人以上の存在だからです。(そうでなければ、単なる人身御供になってしまいます)。

 

もう一つの問題点は、神の「養子」は、私たち一般の人にも可能だということです。もちろん、そこには重要な真理もあります。私たちは聖霊によって神の子(養子)とされ、キリストの弟・妹とされるのです。そこに、キリストと私たちとの連続性があります。この、救いに関する真理にも関わらず、同時に、キリストは救い主、私たちは救われた者という決定的な事実を忘れることは許されません。要するに、十字架を無にすることはあり得ないのです。十字架の死に神的なものを見ない「養子説」が用意に、「十字架なしの聖霊教」となってしまう危険がここにあります。

 

この他さまざまな説があるものの、それが受け入れられるかどうかは、結局、キリストの十字架の真意を認めるかどうかにかかっているので、「キリスト論」は、単なる学問ではなく、私たちの信仰の質にかかわるものです。十字架が「神と人であるキリスト」の出来事であるというのが福音の核心であり、それゆえ、救いの恵みは絶対的なものだと言えるのです。そして、あらためて十字架からキリストという存在を見る時に、それは一時的に聖霊によってもたらされた存在なのではなく、永遠に神の御子であるということがわかってきます。このことを、ヨハネ福音書では、「はじめに『ことば』があった。『ことば』は神とともにあった。『ことば』は神であった。『ことば』は人となった」と表現しています。結局、いかなるキリスト論も、ここに帰る他はありません。神と共にあった「ことば」(神とは別に見える存在)は、しかも神であり、なおかつ人となったということが出発点であり、神や人ということは逆にそこから語られるべきものです。そして、それは、単に神学・哲学の議論から出たものではなく、十字架に神の救いの業を見、復活されたキリストとつながるという事実を通して与えられました。ですから、今日も私たちはパウロと共に「父なる神と主イエスキリストから恵みと平安がありますように」と祈ることができるのです。