礼拝メッセージ要約

20221225日 クリスマス

ヨハネ福音書「聖霊によって生まれる」

 

3:3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 

3:4ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」 

3:5イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。 

3:6肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。 

3:7あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 

3:8風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

 

 

毎年クリスマスシーズンには、キリストの降誕にまつわる話が語られます。羊飼いや東方の賢者の訪問と並んで有名なのは、マリヤが聖霊によって身ごもったという部分でしょう。ヨセフとマリヤがまだ婚約中であった時にマリヤが身ごもったということで、当時のユダヤ社会では(現代でも国によっては)重罪とされるところでした。しかし神の使いのお告げで、人ではなく聖霊による妊娠だと知り、無事結婚したという話です。この、いわゆるマリヤの処女懐妊は、信じる人には神のわざとして信じられ、信じない人には作り話だとされる部分です。検証のしようのない事なので議論しても意味がない話ですが、そこには、私たち一人ひとりに関わるとても重要なメッセージが込められています。それは、「聖霊によって生まれる」というメッセージです。

 

もちろん、キリストの降誕は一度きりの特殊な出来事ですから、今日そのままの形で再現されることはありません。しかし、私たちも、この世に生まれてきただけではなく、別の意味で、聖霊によって新しく(あるいは、上から)生まれなければならないのです。ある夜、ニコデモという指導者のひとりが密かにイエス様を訪ねます。その彼に向かってイエス様が語られたのが今回の聖書箇所です。ニコデモは聖書に精通していたようですが、何か足りないものを感じていたのでしょう。イエス様が多くのしるし(癒しや奇跡)を行っていることを知り、そこに神が何かの働きをしていると考えました。しかし、イエス様は、聖書の研究や「しるし」の体験以前に、根本的なことを語られました。それが「新しく(あるいは上から)生まれなければ(すなわち生まれつきのままでは)神の国を見ることができない」ということです。聖書は読むことができますし、奇跡も目撃することが可能ですが、それだけでは「神の国」を見ることはできないのです。

 

「神の国」とは、「神の支配」という意味で、必ずしも来世のことではありません。この世界は神に創造されたものでありながら、現実に世界を支配しているように見えるのは、政治力、経済原理、宗教やイデオロギー、その他もろもろの利害関係です。要するに私たちは「人の国」に生まれてくるのです。そしてそこで一生を過ごすのですが、実は目には見えない神の国があります。しかもそれは天高く、この世界と別の所にあるのではなく、あるいは死後にあるのではなく、また、人の心に隠れているのでもなく。今ここにある、しかも静かに隠れているのではなく、力強く働いているというのがイエス様のメッセージです。いわばこの世界は二重写しになっていて、生まれてから見ているのは「人の国」だけですが、新しく生まれると神の国を見ることができるというのです。

 

ニコデモはこのメッセージを「物理的」にしか受け取れなかったので、もう一度母から生まれていることなどできないと言いました。もっとも人によっては宗教的に解釈して、「生まれ変わる(輪廻)」ことと思うかもしれません。もちろん、(輪廻自体の有無は別として)それでは人から生まれることと同じです。「新しく生まれる」というのはいかなる意味でも普通の誕生とは違うという点が重要です。このことについてイエス様は「御霊(聖霊)によって生まれる」と表現されました。(一カ所、水と聖霊となっている部分の水が何を意味するのかはいくつかの解釈がありますが、説明は割愛します)。私たちは、聖霊によって新しく生まれるのです。そして、それを可能とするためにイエス様は聖霊によって生まれ、聖霊によって働き、十字架の死により罪の贖いを完成し、復活して私たちに聖霊を送ってくださるというのが福音に他なりません。ですから、クリスマスのメッセージとは昔の話ではなく、私たちの前に備えられている聖霊の現実という切実なものなのです。

 

創世記にあるように、人は土という物理的なものから形作られ、そこに神の息(霊)が吹き込まれて生きた存在とされました。そこに、単なる生物以上の意味があるのですが、人が神に背くことにより、この「神との呼吸」が損なわれることになってしまいました。そのような「失われ、迷い出た」人々を呼び戻すために来られたのがイエス様です。私たちは、このイエス様の名を呼び、身を任せることにより、恵みとして聖霊を受けることができます。聖霊を受けるというのは、「霊に憑りつかれる」のでもなく、あるいは単に「神の力を体験する」というのでもなく、神との呼吸が可能となるということです。これは具体的には祈りとなりますが、その「祈り」の質が問われることは言うまでもありません。

 

人は、「神の国」を見ることなく、祈ることもできます。すなわち、手を合わせ、願い事をすることや、「お祈り」の文章を唱えることも可能です。人には形はともかく宗教性があるからです。もちろん、そのようなことを断固拒否する無神論もあるますが、その場合、そもそも神の国云々を言うこと自体意味がないでしょう。しかし、神の息吹に反応する、生物としての人以上の存在であるためには、そのような祈りだけでは十分ではありません。それらは、人の国に存在する人の行動に過ぎないからです。

 

新しく生まれるためには、ある意味、一旦死ぬ必要があります。もちろん、生物としての肉体的死ではありません。そうではなく、生まれつきの宗教性という、あくまでも自分へのご利益を求める性質の終了を意味します。つまり、自分のいかなる祈りも、神に聞き入れられる必然性はない、神は私たちのリクエストに応える義務はないという、厳粛な事実の前にひれ伏すことが必要なのです。神は神、人は人という当然の場所に帰ることが先決です。「人は皆、罪人」というのはそういう意味です。その上で、私たちをなおも愛し、包んでくださる神の恵みの場に身を投じるのです。それが可能なのは「キリストは罪人のために来られた」からです。そこには聖霊の風が吹いており、その聖霊の中で私たちは生きた者とされます。それが神の国を見、神の国に入るということです。

 

クリスマスのシーズンに、私たちは今一度、キリストが「私のため」に来てくださったことを確認しましょう。そして、イエスの名によって祈り、キリストに対して「はい」と答えるのです。その時、私たちは人の国だけでなく、神の国の中で生かされていることを知ります。これが、一人ひとりのクリスマスです。この祝福が皆様の上にあることを祈ります。