礼拝メッセージ 要約
2022年12月18日 ローマ書 その5 「信仰の従順」
1:1神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、
1:2――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、
1:3御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
1:4きよい御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
1:5このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。
1:6あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。――このパウロから、
1:7ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。
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パウロはイエスキリストが神の御子であることを述べた上で、そのキリストにあって恵みと使徒の務めを受けたことを告白しています。ここの部分は訳すのが難しい部分です。補足を加えた上で直訳すると以下のような感じです。「私たちは、信仰の従順(に入れられる)恵みと使徒職を、諸国民の中で、御名のために、受けました」。
まず、パウロは「恵みと使徒職」を、彼個人だけのものではなく、「私たち」とあるように、彼と同労者たち、すなわち福音を伝える者たちからなるグループに与えられたものだと認識しています。それは、ユダヤ人だけではなく諸国民の中で、御名(イエスの名)のために与えられたものです。キリストにあって、キリストのために神から与えられたものだということです。そのように与えられた「恵みと使徒職」の性質について、パウロは重要なことを書いています。それが「信仰の従順」と訳されていることば、これが今回のテーマとなります。
この「信仰の従順」ということばの意味も、古来、多くの議論の的となっているので注意が必要です。まず、これは「信仰と従順」ではありません。パウロが導かれ、また伝えている福音は、信仰と従順(という行為)の二つではないということです。ユダヤ人であれば「従順」は律法の順守を意味するでしょうから、信仰と律法の二つではないという意味にもなるでしょう。そこで、「信仰」と「従順」がどのような関係にあるかが問題となるわけです。
まず原語は、信仰が属格(英語の所有格に似ているもの)なので、そのまま訳すと「信仰に属する従順」となるでしょう。ただ、「属格」にも様々な用法があって、「信仰への従順」という読み方も可能です。このような背景があるので、いろいろな解釈が出てくるわけです。たとえば、「救いは信仰だけで起こるが、救われたら、救いにふさわしい行動が必要になる(あるいは可能になる)というものです。この、いわゆる「クリスチャンらしい行動」が「従順」ということになります。もちろん、クリスチャンに福音にふさわしい生き方が求められるのは当然ですが、これは気を付けないと、いつのまにか信仰そのものが変質してしまいます。
よくあるパターンはこうです。まず、特定の教義(使徒信条や、その教派固有の教え)、すなわち所属教会の教えを信じることが求められます。この段階の信仰は「知的に受け入れる」と同義です。そして、その「同意」の証明としての洗礼が続きます。そして、同意した以上、教会の教えを実践することが求められます。すなわち教会員らしい行動であり、その実行が「従順」ということになります。「知的な同意」が入口で、いわば神との契約が行われ(実際には教会との約束)、その実行という「従順」がその目的だという構図です。「信仰」の「実践」(従順)そして、そのような行動によって、当初の「知的な合意」が確信へと変わっていくというのです。
このようなパターンは、世間の様々な分野にあるもので受け入れやすいのかもしれませんが、様々な問題があります。まず、受け入れるべき教えが何なのかという点です。「教会の教え」は多様です。バプテスマ、聖霊の賜物、終末の理解など挙げればきりがありません。どの解釈を採用しても大差がないものもありますが、具体的な実践に関わることもたくさんあります。自分が聞かされたことを「確信」しないと実践できず、実践しないと確信できないとなると、堂々巡りの不信に陥る危険があります。また、従順の実践に終わりはありませんから、従順が信仰の証のように語られると、自分の「信仰」までがあやふやになってしまいます。
このような問題は、そもそも「信仰」の理解がずれていることが原因です。私たちの救いに関係する「信仰」とはどのような事態なのかを語るのが、まさにローマ書ですから、詳細はこれから学んでいくわけですが、ポイントだけを単純に述べると次のようなことになります。私たちに必要なのは、キリストを信じることであって、キリスト教(の教え)を信じることではありません。もちろん、人は言うでしょう。「キリストを信じるというのは、キリストの言ったことを信じることであり、それはすなわち聖書のことばを信じることである。そして、聖書のことばを教会は教えているのだから、結局それは教会の教えを信じることなのだ」と。一見もっともな主張に聞こえますが、それでは究極的にはキリストと牧師が同じ権威を持っていることになり、恐ろしい偶像礼拝となってしまいます。
私たちに与えられた恵みとは、「キリストのことばについての人間の解釈を信じる」ことではなく、キリストと出会い、キリストとの交わりに入ることができるということです。例えば、ベートーベンの曲を見事に解釈した演奏を聴くことと、ベートーベンと友達になることは全く別のことであるようなものです。ベートーベンは過去の人なので、最善の演奏を追求する以外に関わることはできませんが、キリストは生きておられるので、親しくなることができるのです。(これは、もちろん聖書のことばを軽んじたり、説教を無用としたりすることではありません。キリストと出会ったと自称し、聖書を無にすることが論外なのは言うまでもありません。あくまでも、キリストが生きておられるということが土台でなければ、聖書が過去の本になってしまうということです)。
もちろん、キリストとの交わりは、自分自身の罪深さを知れば知るほど不可能なことのように感じられます。反対に、自分の罪を度外視して、聖書についてあれこれ論じることは可能です。私たちは、罪によってキリストと相いれない存在であることを悟ることが必要です。そして、そのような罪人をご自身の死によって赦し、友と呼んで下さるお方こそキリストであり、私たちは、その御名を呼ぶだけでキリストとの交わりに入れるのであり、それがまさに福音に他なりません。
ですから「信仰」というのは、この福音に身を投じるということであり、赦された罪人がキリストと交わるという現実なのです。「従順」とは「聴いたことの下にいる」という意味のことばで「聴従」という訳もあります。ですから、「信仰の従順(聴従)」とは、福音を聴き、福音の場に身を投じるということになるでしょう。それは、福音を聴くということと、福音の現実に属する者となるということが一つであるような恵みの場です。そして、そのこと自体が人の業ではなく、神から出ていることなのです。
パウロとその同労者たちは、恵みによってこの現実に導かれ、この恵みを諸国民の中で伝える者とされました。これが「召命」の現実ですが、この召命は彼らだけのものではなく、ローマにいる信徒たちのものでもあり、また私たちのためのものでもあるのです。