礼拝メッセージ 要約
2022年12月11日 ローマ書 その4 「肉と霊」
1:1神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、
1:2――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、
1:3御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
1:4きよい御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
1:5このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。
1:6あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。――このパウロから、
1:7ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。
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パウロは、ここで「御子」について説明をしています。2つの観点があげられています。一つ目は「肉によれば」、二つ目は「聖い御霊によれば」という観点です。「肉」と「霊」はセットで語られることが多いので、内容を確認する必要があります。
まず「肉」です。これには二つの意味で使われているので注意が必要です。一つは単純に「肉体」という意味で、人間の物理的な存在を指しています。そこに、特に良し悪しの判断はありません。キリストがダビデの子孫として言うときの「肉」もこれに相当します。二つ目の「肉」は生まれつきの罪の性質を指しています。問題は、この「罪の性質」が具体的に何を意味しているかです。ここで確認が必要なのは、パウロ時代から今日にいたるまで見られる、いわゆる「霊肉二元論」という世界観です。これは当時のギリシャ文明でも非常に影響力があり、聖書の伝統であるユダヤ的な世界観と対立していたばかりでなく、クリスチャンにも悪影響を及ぼしていました。
この「霊肉二元論」では、人間は霊と肉体でできていて、霊は神的な聖い性質を持っているのに対して、肉体は罪深い性質を持っていると見なされます。このような世界観、人間観というのは非常に一般的で、「人は(その内側に)神的で善良なものを持っているが、肉体という制約の中でそれが隠れている」というような言い方がされます。このような人間観にも、肉体の問題をどの程度重視するかで様々な形を取ります。肉体自体のことは問わず、ただ内なる善(あるいは神性)を発見し活用することだけを目指す自己啓発型は、現代でも広く見られるものです。肉体の問題を重視すると、より宗教的なものとなり、さまざまな修行が課せられ、肉体の限界を超越したところで、内なる真理を具現しようとします。また一方で、肉体は見放し、修行ではなく享楽に走る人たちもいます。このように様々な形がありますが、共通しているのは、肉体と精神と分けるだけでなく、その精神には生まれつき神的な要素を持っているという考えで、これを霊肉二元論と呼んでおり、これがキリスト教にも悪影響を及ぼすようになっていきます。
これに対して、ユダヤ的(へブル的)人間観では、精神と肉体を切り離さず一体のものと見る傾向があります。「霊肉一元論」と呼ぶこともできるでしょう。肉体と精神という二つの別のものが合体して人ができているのではなく、人という存在には、精神と肉体という機能があるけれども、これを分離することはできないということです。
この場合、「肉」は「肉体」の意味だけでなく、生まれつきの性質を表すことになります。この意味での「肉」は「堕落した性質」のことで、肉体というよりも、肉体も精神も含めた「人」全体が罪の性質を帯びていることを意味します。ですから肉体も精神もまるごと罪に堕ちた人が、肉体も精神もまるごと救われるのが、聖書での救いです。これは大切な点で、初期の教会もこれを守るために多くの試練にあうことになります。これがグノーシス的なものとの対決というもので、新約聖書や初期の文書の多くはこの問題にかかわっています。
この影響は今日まで続いています。通俗的なキリスト教では、「救われるとは、死んだら天国に行くことだ」とよく言われます。天国に行くのはもちろん霊魂のことで、肉体と分離した存在が場所を地上から天に移すというイメージです。もちろん、パウロにもこのような表現がないわけではありませんが(ピリピ1章23節)、あくまでも基本は肉体も精神も含めた全人的な救いであり、これを「復活」と呼ぶのです。ただし、その「復活」は一瞬で完成するのではなくプロセスです。まず聖霊によって人の霊が活かされ、肉的な性質を克服していきながら、一旦は霊においてキリストに迎えられて、肉体が「霊のからだ」として復活し、全き人となるのです。
以上のようなことを踏まえた上で、今回のテキストを読んでいきます。キリストは「肉によれば」ダビデの子孫です。しかし、厳密に言うと父ヨセフとは血がつながっていないので、肉体的な子孫ではなく形式上の子孫ということになります。その意味でも、この「肉によれば」という表現は、消極的な意味を持っていると言えるでしょう。ただし、イエス様を受け入れない一般的なユダヤ人にとっては、来るべき王がダビデの家系であることは必須条件なので、この「肉によれば」の部分も大切だという人もいます。しかし、ダビデの子孫は大勢いるのですから、そこに王族の一員としての資格があるということ以上の意味を見出すことは困難です。
これに対して重要なのは「聖い御霊によれば」という観点です。イエス様が神の御子であるのは、聖霊にもとづく視点であり、具体的には死者の中からの復活によるというのが最重要事項です。イエス様が何者なのかという問いに対する答えはいろいろあります。預言者、癒しと奇跡の人、教師、ユダヤ教の改革者、そしてメシヤなどです。これらはイエス様の地上の働きの最中から言われていたことであり、それなりの真理ではありますが、それだけでは福音としては不十分です。福音はイエス様を「神の御子」と宣言するのですが、それが可能なのはイエス様が復活したからです。これが霊的な視点だというところがポイントです。霊的というのが、「イエス様は死んで霊魂は天に上った」ということではなく、墓は空となり主はよみがえった(復活した)ということ、すなわち肉体も霊魂も一体の出来事だというのがユダヤ的であり、かつ聖書の世界観、人間観なのです。
このことは、私たちにとって重要な意味を持ちます。肉体は単に「土」からできた精巧な機械なのではなく、また単に享楽のための手段なのでもなく、霊化されるべき存在です。同時に、精神、霊魂も、たんなる機能ではなく、また肉体とは別の存在なのでもなく、それは「肉体化」(ただし霊のからだ)、すなわち復活すべきものだということです。つまり全人的に救われるのです。しかしこのことは、例えば超高齢化社会を迎え、多くの人が認知機能が衰えたまま多くの年月を過ごす現代日本において、人間をどうとらえるのかということにも関係してきます。そこで、「復活の希望」という視点が不可欠になってきます。
キリストは復活により神の御子に「公けに示された」とあるのは、「宣言された、あるいは取り分けられた」という意味です。「大能によって」とは、「力強く」と解して良いでしょう。復活は、神による力ある宣言なのですが、それは「霊的」な事態だというところがポイントです。力あるから目に見えるのではなく、霊だから弱いのでもないのです。私たちは全人的に神の御前に出て、全人的な救いに与ります。そのためにキリストは来られ復活されたのです。