礼拝メッセージ 要約

2022124日 ローマ書 その3 「預言者と聖書」

 

1:1神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、 

1:2――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、 

1:3御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、 

1:4きよい御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。 

1:5このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。 

1:6あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。――このパウロから、 

1:7ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。

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パウロが伝えようとしている「神の福音」は、「預言者たち」を通して「聖書」において前から約束されていたものです。この「預言者」と「聖書」も大切なキーワードですので確認していきましょう。

まず「預言者」です。「預言者」と「予言者」は違うというのは、よく言われることです。「予言者」は様々な宗教に存在している、未来を予告する人であるのに対して、預言者は神のことばを預かり語るものだということです。ただ、旧約聖書の記録でも古い時代になると、「預言」も「予言」も実質的に同じような状態であったことが分かります。いわゆる「神がかり」状態になった人が「神のお告げ」を語るので、しばしば彼らは酔っているように思われました。ヘブル語では、このようなシャーマン的な人を「ローエー(見る者)」と呼び、神のことばを語る者を「ナービー」と呼んで一応区別していますが、その区別は必ずしも厳密ではありません。また、イザヤのような完全は「預言者」であっても、その預言自体がどのように発せられたのかは定かではありません。

このような事態は「古い」時代だけのことではなく、使徒の働き冒頭で、異言を語っていた人たちが酔っていると思われたのも一例です。さらに、一部の預言者は奇跡のようなことを行うとも考えられています。

 

いずれにしても、何らかの意味で「神のことば」を語ることが「預言」であるとすると、それはかなり幅広いものを指すことになります。問題は、今日において「預言」「預言者」をどうとらえるかということです。保守的な人たちの考えは、預言者は新約聖書の完成と共に終了し、今日、神のことばを語るとは聖書の説教に限るというものです。他方、今も預言は昔同様存在するという考えもあり、聖霊派では実際しばしば預言が語られます。もちろん、それらの預言は聖書と同等の価値があるのではなく、あくまで聖書に従属することは言うまでもありません。聖書と対等となると、それは異端ということになり、聖書以上ならば、もはやキリスト教とは呼べません。

とはいえ、聖書の解釈であっても預言であっても、それが実質的に聖書そのものより影響力があるという事態はしばしば起こります。聖書の内容は多彩であり、さまざまな解釈の余地がある以上、これは避けることができません。ですから、結局、預言をどうとらえるのかという問題は、聖書をどうとらえるのかということと一体のことであることが分かります。 

 

聖書自体が聖書の性格について述べた箇所として有名なのは「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(第2テモテ315節、16節)という箇所です。この中の「神の霊感」(神の息が吹き込まれている)という言葉から聖書の「逐語霊感説」が、また「律法の一点一画もすたれない」というマタイ伝にあるイエス様のことばなどから、聖書の「無誤・無謬説(むご・むびゅうせつ)」が生まれました。「逐語霊感」というのは、聖書のメッセージの内容以前に、その単語一つ一つが霊感を受けているというもので、そこから、聖書の文字がすべてそのまま正しいという「無誤無謬説」が導かれます。

 

これは、いわゆる「聖書主義」をとなえる人たちの主張で、中でも最も厳格な場合は「聖書根本主義(原理主義)」と呼ばれます。福音派の多くがその立場です。これにたいして、いわゆるリベラルな立場の人は、聖書は「キリストに対する信仰による救いを受けさせる」という目的を達成するために「霊感」を受けた書であり、その限りにおいて「誤りがなく廃れることもない」というものです。両者の主張は非常に隔たっている上に、その中間の様々な立場もあるので、当然、聖書解釈も多様なものとなるわけです。

このように、預言者にしても聖書にしても、その前提となる立場には様々なものがあるので、対話する上で注意が必要です。そうでないと、相手の話を誤解したり裁いたりすることになってしまいます。

 

その上で、パウロの言葉に帰ると、あくまで主題は福音であり、それは預言者たちによって語られ、聖書において保存されてきた約束だということです。逆に言えば、福音を語るのが預言者であり、私たちは聖書から福音を読みとるべきなのです。そして福音とは、それは「御子」に関する約束として伝えられてきたものですが、すでに御子が来られた現在では、御子を指し示す役割を持ったものだと理解してよいでしょう。パウロの時代、聖書と言えば今日でいうところの「旧約聖書」を意味していましたから、私たちも、旧約聖書を、預言者たちが語った「御子に関する」約束を保持している書として読まなければなりません。これは決して簡単なことではありません。現に、古今東西多くの聖書学者がそのようなものとして聖書を読むことに失敗しているのです。それは、ある意味もっともなことです。ユダヤ人にとって聖書は、第一に律法の書であり、さらにユダヤ民族の歴史書だからです。

 

このような「聖書」の中心テーマが「神の御子」であるというのは、一部にはそれを示唆する文もあるとは言え、ただ聖書を本として読むだけでは出てこないでしょう。そもそも神に御子がいるということがすでに難題です。人間は「御子」ぬきで、直接神につながることはできないのでしょうか? ユダヤ人はできるというでしょう。ただし、無条件ではなく「律法の実践」を通してのみ可能となります。世界には種々の「神秘宗教」があり、そこでは神との直接的な合一が説かれます。しかし、合一したとされる「神」がいかなる存在なのかは疑問が残ります。このように、神とのつながりが「無条件」か、律法やメシヤという仲保者を介在してなのかというのはしばしば議論されるところです。

 

しかし、そのような「人はいかにして神につながるか」という人間を出発点としたアプローチではなく、「神はいかにして人とつながるか」ということがより大切なことであり、福音とはまさにそれに他なりません。第一に、神はご自身の愛を表すために、「御子を遣わしました」。聖書は御子とは何かという説明をするのではなく、「神がご自身の御子を与えられた」という出来事全体を通して神の愛を語っているのです。これが神の「自己譲渡」と呼ばれる事態であり、これを旧約聖書に見ることができるのかというのがポイントです。パウロは、それを、ただ聖書の長文読解で理解したのではなく、復活のキリストとの出会いによって悟ったということも重要です。第二に、神のこどもとされるのは、キリストと人との相互内在によるということです。これも、ただ聖書の文字面を読むだけでは分かりませんが、「愛」の本質を究めていく中で必然的に露わになってくるものです。この「愛」が聖書の中心であり、その究極の表現がキリストだというのが福音であり、私たちはこの福音に生かされているのです。