礼拝メッセージ 要約

20221127日 ローマ書 その2 「召命」

 

1:1神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、 

1:2――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、 

1:3御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、 

1:4きよい御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。 

1:5このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。 

1:6あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。――このパウロから、 

1:7ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。

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パウロは自分をキリスト・イエスのしもべと呼びます。この「しもべ」とは奴隷とも読める言葉で、「他の人に所有され、自分自身は何も所有していない人」のことです。一般に「奴隷」には否定的な意味しかありませんが、聖書において「キリストの奴隷」は、最も栄誉ある称号として用いられています。モーセ律法に、奴隷から解放されることができたのに、主人を慕って奴隷として留まる人の存在が記されていますが、パウロの場合も、キリストを慕っている「奴隷」だという側面があります。そうではありますが、この「奴隷」という言葉については掘り下げる必要があります。

 

今日、奴隷という表現を使わず「従順な僕(しもべ)」という形に緩めて理解しようとすることがあります。上記の「自発的奴隷」のような解釈です。もちろん、奴隷はいかなる意味でも奴隷であり、聖書時代の社会はともかく、今日では一切認められないという立場もあります。たとえ自発的であっても、そもそも一人の人間が他の人間の所有になるということは重大な人権侵害であり認めるわけにはいかないからです。昨今話題になっている、いわゆるカルト宗教の問題でも、信者が「自発的に」多額の献金・奉仕をしているとされる状態が、外部からは「洗脳された奴隷状態」にしか見られないということがあります。たとえ「主(あるじ)」を信じ慕っているとしても、個人の自由が保持されていることは絶対必要条件であるというのが、現代社会の基本です。

 

三つの論点を整理します。第一は、パウロの語っているのは「キリストの奴隷」であって、キリスト教会組織の奴隷ではないということです。第二は、パウロが文字通りの意味で「奴隷」と言っていることです。そして第三は、奴隷という言葉から学ぶ深い霊的視点です。

 

第一の論点は、単純ですが重要です。およそ宗教は神(あるいは同等の絶対的な存在)に対する全面的な帰依を理想としますが、多くの場合、人々が直接神とつながることを認めず、宗教団体や指導者を介することを求めます。そうなれば、神への帰依といっても、それは結局、人や組織への帰依となってしまいます。そのような宗教心は見た目には立派であっても、その中身は偶像礼拝に他なりません。一方、宗教問題を離れて一般的な奴隷問題についてですが、パウロは当時の奴隷制度自体の解体を目指しはせず、奴隷であってもそのままクリスチャンとして歩めるとはしました。しかし同時に、奴隷たち(当時の多くの人は奴隷でした)に向かって、「もし自由になれるならなりなさい。(キリストのいのちという)代価によって買われたのだから、人の奴隷となってはいけない」(第一コリント7章)とも言っています。自由人と言われる者もキリストの奴隷であり、奴隷と呼ばれる者のキリストにある自由人であるとも書いているように、この世で奴隷である状態自体は決定的なものではありません。いずれにしても、キリストの奴隷であることと、人の奴隷であることは決定的に異なるのです。

 

第二の論点は、パウロが奴隷と言う時に、それは文字通りの意味で言っているということです。すなわち、自分の意志でそうなったのではなく、キリストの意志によるのです。これはもちろん、パウロが嫌々「奴隷」を続けているということではありません。反対に、最高の栄誉だと考えています。それでも、自分で選んだ道ではないという点は変わりません。このことをパウロは、「選び分けられ召された」と表現しています。使徒の働きには、パウロが「召命」を受けた時の事情が記されています。キリストの弟子たちを迫害するためにダマスコに向かう途上、いきなりキリストの光に打たれ召されました。そこにパウロの選択の余地はなかったのです。それが神的な事態であることはパウロにも初めから分かりましたが、実はそれがキリストであることが、キリストご自身が語りかけて来られたことで理解できました。キリストはこの時パウロを使徒となるべく召されたのです。そして「高貴な使命を与えられた奴隷」が誕生しました。ですから、奴隷という表現は、この「神の選び」を強調するためのものです。神の選びは実にローマ書の中心テーマの一つですから、そこで再び「人の自由意志」と「神の選び」の問題が扱われることになります。また、このことは、パウロひとりに起こった個人的な出来事に留まるものではなく、福音とともに、形は様々であっても、あらゆる人の上に起こることなのです。

 

このことは第三の論点につながります。選択の自由がない場合、たとえ後に「主(あるじ)」を慕うようになったとしても、それは真実の愛かどうか疑問がわきます。しもべの側の愛以上に、そもそも愛を強制した「主(あるじ)」の側の愛が疑われるからです。人間と人間との関係であればそのとおりです。また、神を人間の外にいる、何か強大な権力を持った君主のように考えるなら、やはりそこに真実の愛を見ることは無理です。そこで私たちは改めて「神」が何を意味しているのかを確認する必要があります。前回学んだように、私たちは神の「外」ではなく、そもそも神の「内」にいるのです(神の場に置かれている)。そうでなければ、私たちはそもそも存在しません。そこに選択の余地はないのです。パウロもそのことは分かっていたでしょう。彼がわからなかったのは、その神の場がキリストの場でもあったということです。キリストの光に打たれた時に彼はその事実を知ったのですが、同時に「なぜこの私が選ばれたのか」とも思ったことでしょう。もちろん、その究極の理由は神の主権の中にあるとは言え、その目的は示されました。すなわち福音を宣べ伝えるということです。つまり、使徒となるということです。ここまで、すべて神の主権によってなされたことです。

 

だから彼は「奴隷」なのですが、そこに何故「愛」が登場するのでしょうか。それは、選ばれたということは「神の赦し」に与ったという事だからです。すなわち、キリストに敵対し、裁かれるはずだった者が逆に使徒となる栄誉をいただいたのは神の恵みであり、そこから神への感謝が生まれ、神の絶大な愛を悟ることになったのです。この恵みのゆえに彼は救われ、「罪の奴隷」から「キリストの奴隷」への転換が起こりました。キリストの奴隷は、キリストにある自由人(すなわち、罪の奴隷から解放された者)であるという福音の奥義をしめしているのです。