礼拝メッセージ 要約

20221120日 ローマ書 その1 「神」

 

1:1神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、 

1:2――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、 

1:3御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、 

1:4きよい御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。 

1:5このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。 

1:6あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。――このパウロから、 

1:7ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。

 

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歴史をも動かしてきたと言われるパウロによるローマ信徒への手紙をあらためて読んでいきます。これは手紙なので、当時の一般的な形式で、まず挨拶によって始められています。しかし、この挨拶の中に既に多くの内容が含まれていて、それだけで一書を成しても不思議ではない程なので、慎重に読む必要があります。

 

この挨拶は原語では一つのセンテンスだけでできています。挨拶自体は、パウロからローマの聖徒たちへ。あなたがたの上に、神の恵みと平安がありますようにという、クリスチャンとして標準的なものです。この枠組みの上で、パウロとはどういう者か、福音とはだれについてのものなのか、御子とは誰なのか、キリストはどのような存在なのか、というように、要点が修飾語として加えられていて全体を構成しています。原文と日本語訳は語順が異なりますが、結局は同じことを言っているので、今回は、日本語訳に登場するキーワードを順に見ていきます。

 

まず「神」です。この単語の意味するものは、これまでも学んできたように人によって多様です。パウロでアテネでの説教で、汎在神論(世界は神に於いて存在している)的な説明をしていますが、ここでは説明抜きにいきなり「神」で始まっています。手紙の相手がクリスチャンだからということもあるでしょうが、この「神」は実質どのようなお方なのかというのは、この手紙全体から知ることになるので、説明抜きで始まっています。ただし私たちは、この「神」(定冠詞つき)について整理する必要があります。というのは、今日私たちは旧約と新約両方を「聖書」としているので、その両者の関係を理解しなければなりません。

 

旧約聖書で「神」と訳されている語は基本的に「エロヒーム」で、これは一般的な神(エル)という語の複数形(ただし聖書の神については単数として使用)です。この一般名詞に対して、イスラエルと契約を結んだ神という、より具体的な神は、神聖四文字(YHWH)で表記されており、その発音はおそらく「ヤハウェ」です。これがいわば旧約の神の固有名と言えます。ただ固有名と言っても、「わたしはある」あるいは「わたしはわたしである」という神のお答えを三人称化したものと考えられますから、火の神とかユダヤの神とか言った「限定された神」ではありません。名前というのは、そのものを限定して表現するものですから、「名のない神」という事もできます。「神は神」だということです。ヤハウェは名であって名でない不思議な言葉なのです。

 

この「ヤハウェ」はあまりにも神聖で恐れ多いということで、これを「主」ということばに置き換えて使うという習慣ができました。旧約聖書で太字の「主」となっているのがそれで、つまりヤハウェのことです。その他の箇所の「主」は一般的な主で、いろいろな所で使われています。

 

ここで問題となるのが新約での「名」です。

新約聖書には、「ヤハウェ」という名は登場しません。もちろん、旧約の神と新約の神が別だということではありません。ある人は、新約に出てくる「主」がヤハウェのことだと言いますが、主はむしろキリストの称号で、ローマ皇帝に対して、真の主であり、万物の主であるということを指しています。また他の人は、旧約のヤハウェが新約ではイエスという名に変わったといいますが、イエスは人となられた神の御子への固有名ですから、これも無理があります。むしろ、「ヤハウェ(YHWH)」という文字自体が永遠に維持すべきものなのではなく、その名が示している内容が永遠だという意味に捉えるべきでしょう。すなわち、「私は私であって、何々ではない」、名前によって限定されない神であるという事実が変わらないのです。「神は見えない」というのは、人間の視力の問題ではなく、「形がない」ということであり、形がないというのは「名がない」ということです。その「無限定の神」の中に、限定されたものとして私たちは存在しています。(いわば、無限定の神の場に、限定された私たちが置かれているという意味です)。

 

しかし、それだけでは私たちが神を知ることはできません(神について考えることはできますが)。大切なのは、その神が、ご自身を限定して、「わたしは何々の神である」という形でも語られるということです。例えば「全能の神」「平和の神」等、実例はたくさんあります。無限定の神がご自身を限定して語ってくださるからこそ、初めから限定されている私たちが神とつながることができるのです。これを「神の謙遜」と呼ぶことができるでしょう。そもそも私たちが神のことを考え、語ることができるのも、神がへりくだり、あたかも何かに限定されているもののように自己表現してくださるからです。そのような神とつながるには、当然、私たちの側も、神の前にへりくだることが求められます。これが、「謹んで神のことばを聴く」ということです。

 

「謹んで聴く」というと、単純に「神のことばをインプットし行動する」ことと思われるふしがありますが、それは人間がロボットになるということであって、謙遜ではありません。(ロボットに謙遜はありません)。むしろ、私たちは知力も尽くして、神の真意を探ることが必要です。そして、忘れてならないのは、神はご自身を限定(制約)して語っておられるので、その言葉の文字面だけを捉えて「神はこうだ」と決めつけてはいけないということです。限定された者として、どこまでも探り求め続けることが私たちの謙遜なのです。

 

私たちはローマ書において、無限定の神が、ご自身をどのように限定し、私たちに語り、働きかけておられるのかを知ることになります。同時に、私たちはどのように限定されていて、そのどの部分の限定が取り払われる必要があるのかも学ぶことになります。無限定の神は普遍的な神ですから、民族、性別その他の制約を超えた全人類に対するご計画が現われます。同時に、人間は様々な限定を受けた存在ですが、その最も深刻な問題として、罪と律法の問題についてのメッセージを学ぶことになるのです。

 

 

<考察>

1.「神」という言葉から連想するものについて考えてみましょう。

2.パウロが単なる「福音」ではなく「神の福音」と書いたのは何故でしょう?

3.パウロが自己紹介をこのように複雑なものとしたのは何故でしょう?