20221113

「何のために生きるのか」その2

 

(へブル人への手紙)

7:27ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。 7:28律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。

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(第一ペテロの手紙)

2:5あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、きよい祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

 

2:9しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、きよい国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。 

2:10あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。

 

 

「愛す」ために生きるというのは、祈るために生かされているということです。私たちは「祭司」として選ばれたのです。ここで「祭司」について確認しましょう。「祭司」とは、神と民衆の間に立ち、民衆の罪の赦しのために祈り、赦しや癒しのために必要な手続きを実行する人たちのことです。また、神の教えを人々に語ることもあります。ユダヤ律法の世界では、そのトップである大祭司が年に一度だけ神殿の至聖所に入り、全イスラエルの罪の贖いをすることが知られています。ユダヤだけでなく世界中の多くの宗教には祭司に相当する人たちがおり、しばしば彼らは聖職者などと呼ばれ、一般人とは異なる地位についています。その中で、キリスト教プロテスタントでは、「万人祭司」が唱えられ、キリスト者全員が祭司なのだから、神と一般信者の間に位置する特別な階級はないという大切な原則が維持されています。そこで、階級としてではない、新約時代の祭司についての理解が必要となります。まず、祭司のトップである大祭司について見てみましょう。

 

大祭司としてのキリストについてはへブル人への手紙に詳しく述べられています。人間の大祭司は動物の血によって限定的な贖いをもたらすのに対して、キリストはご自身の血によって永遠の贖い(罪の赦しによって神から離れていた人が神のもとに戻されること)を成し遂げられたというのがポイントです。人間の大祭司だけでなく、神殿やその祭儀などの地上の事柄は、あくまで天にある本体の限定的な写しであり、その本体である大祭司はキリストです。永遠の贖いが成し遂げられた以上、さらなる贖いは必要はありません。もはや地上の大祭司は、天の大祭司を指し示す象徴以上の意味はなく、地上から無くなっても構わないのです。(このような主張が、ユダヤ権力側から危険視されたのは無理もないことです)。天の大祭司は、贖いを成し遂げただけでなく、今日も私たちのために祈っておられます。真の祈りは私たち人間から出るのではなく、天のキリストから出ているのです。

 

この大祭司の存在を基礎として、私たちの祭司としての役割を確認していきましょう。元来、祭司は大祭司を補助する者です。ただし、地上の場合、大祭司と祭司は役割こそ異なるものの、同じ人間です。どちらも自分自身、贖いを必要としています。しかし、キリストと私たちの関係は異なります。キリストは贖う者、私たちは贖われる者です。ですから、贖いに関しては、私たちにできることはありません。できるのは、贖うお方であるキリストを指し示すことだけです。このことは大切な原則です。というのは、世の中には教祖、リーダー、組織などが、実質的に「贖い」の権利を握っているものが沢山あるからです。どんな宗教・宗教者でも、権力を指向すると、そのような方向に走る誘惑に陥るのです。大祭司は天におられるので、地上には特権的な宗教者・団体は無いということを忘れてはなりません。

 

その上で、祭司である私たちに言われているのは、ペテロの手紙にあるように、「霊のいけにえをささげること」と「神のみわざを宣べ伝えること」です。罪の赦しのためのいけにえはキリストによって完了したので、「霊のいけにえ」は祈りと祈りに基づく行動となります。祈りはどのような祈りも貴重ではありますが、祭司としての祈りは、大祭司の祈りに沿ったものが大切です。つまり、キリストの望んでおられることを祈るということですから、それが何なのかを学ぶことから始めなければなりません。私たちはそのために聖書を学んでいます。そして、それを人々に適用するのです。キーワードは、「愛」「信仰」「希望」「恵み」「赦し」「和解」「平和」「自由」「癒し」など様々あります。

 

これらの言葉の大半は、世間でも貴ばれるものですが、その前提として「罪の赦し」が不可欠だという所がポイントです。私たちは、人々の罪が赦されることを第一に祈ります。それがなければ、他のもの全てが絵にかいた餅になってしまうからです。キリストは罪人のために来られ、今日も罪人を招いておられるのですから、その招きが私たちの祈りともなるのです。ですから、私たちの求めるものは、基本的に赦しであり、裁きではありません。人間的には、好ましい人、立派な人を見て祝福を祈ることは簡単ですが、そうではない人のために祈るのは難しいことです。しかし、私たちがすべきは、好ましくない人を好きになることではなく、彼らの罪が赦されることを祈ることです。ひとつの注意点は、決して「上から目線」ではなく、自分も罪の赦しを必要とする者であるという、いわば同じ立場で祈るということです。「同じ立場」こそが祭司の役割なのです。

 

「神のわざを宣べ伝える」ことも同様です。福音を伝えることの土台は罪の赦しです。キリストによって自分の罪が赦されたことが出発点です。ただし、ここにも注意点があります。自分の体験がベースだといっても、あくまでも中心は「神の」わざであり、「自分」の体験ではありません。「私がどうなった」ではなく「キリストが何をされた」かが大事なのです。これは微妙に見えながら決定的な違いをもたらします。「自分の信仰」を語るのではなく、「神の真実」を語るのです。神の真実とは「十字架のことば」です。それは、(神の力を貴ぶ)ユダヤ人には躓きであり、(知恵を貴ぶ)ギリシャ人には愚かさですが、信じるものには救いをもたらすものです。

 

キリストは大祭司として今日も語っておられます。また私たちの声に耳を傾け、アドバイスもしてくださいます。しかし、それを単なる見えないカウンセラーのレベルだけで考えてはなりません。キリストは「十字架のキリスト」なのです。パウロが「十字架の他には何も誇らない」と言ったとおりです。「十字架のキリストは今も生きて働いておられる。だから、主(十字架のキリスト)の名を呼ぶものはだれでも救われる」という、シンプルでありながら無限に深く広い福音を私たちは宣べ伝えるのです。

 

<考察>

1.「いけにえ」という言葉から何を連想しますか?

2.日本で「祭司」に相当するような存在はありますか?

3.自分が祭司であることについてどう感じますか?