2022年11月6日
テーマ 「何のために生きるのか」その1
マタイ福音書
25:29だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。 25:30役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。
6:29しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。 6:30きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
22:37そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 22:38これがたいせつな第一の戒めです。 22:39『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
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日頃は日常生活に追われ、押し寄せる課題をこなすことで精一杯であっても、ふとした時に、「いったい何のために自分は生きているのだろう」という疑問に襲われることがあります。人生最大の問題のひとつと言ってもいいでしょう。
人は生まれると早速課題が与えられます。基本的には生き延びるための生理的欲求を満たしてもらうことですが、自分の方からできることはわずかです。子どもとしての成長とは、自分でできる範囲を拡げることが基本となります。同時に視野も広がり、課題も生理的なものだけでなく社会性のあるものとなっていきます。成人すると、そこに責任がかぶさってきますから、課題の解決に追われるようになります。「課題解決のために生きる」というライフスタイルができあがります。そして老年となると、再び課題が社会的なものから自分の身の回りのものへと変化していき、解決の方法が尽きる時に人生を終えることとなります。
このように「課題解決のために生きる」とすると、解決能力と実績によって自分の価値が定まることになります。もちろん、世の中には、そのような「真面目な人生」には興味がなく、ひたすら自分の快楽のみを追求する人もいます。この場合、そのような人の課題とは、自分の欲求を満たすことだけですから、単純な生き方ではありますが、決して容易というわけではありません。というのは、欲求には際限がないので、その追及には終わりがないからです。そして、遅かれ早かれ限界に達し、追及すべき目標も手段も消えていくでしょう。
そのような「課題解決」のために生きるのとは別の路線もあります。「自分が何をしたか、何ができるか」ではなく、「あるがままで受け入れられている」という世界に生きるという路線です。そもそも幼児期はこの「受容」があって成立するのですし、通常老後も次第にそのようになっていきます。ですから、自分が「受容されている」ことを認め、他者を受容していくことが生きる道ということになります。もちろん、そのような事自体が「課題」だとは言えます。しかし違いは、「受容」の課題をクリアすることによって自分の価値が認められるのではなく、初めから価値があるから「受容」があるのだということです。「君は愛されるために生まれた」という歌があるように、愛されているということがそのまま価値であり、価値があるから生きているということです。ですから、老年で何もできないようでも、あるいは障害をかかえ、周囲に負荷をかけているように見える人生でも、人生には意味があるのです。
第一の「課題解決型」を律法的人生と呼ぶなら、第二の「受容型」は、より「恵み」の原理に近づいた生き方にも見えます。「野の花でさえソロモンに勝って神が装ってくださっている」という言葉もあります。単純に考えるとすばらしい世界に思えるのですが、昨今の「ありのままの姿を受け入れるべき」だという考えが、果たして無条件に正しいのかという点については疑問が残ります。天地創造そのままの世界(すべて良しと神が言われた世界)であればともかく、様々な罪によって「破れて」いる現在のすべてを単に受容することはできないからです。
また、「自分が愛されている」という点に自分の価値を見出そうとすると、まず「愛されている」という実感が持てるかどうかが問題となりますが、そのような主観は揺らぎやすく、ある時は愛されているように感じ、別の時は愛されていないように感じるという生活になってしまう可能性があります。
このように、「課題を解決するために生きる」のも、「愛されているという事実を土台として生きる」のも、それぞれ価値はありますが、充分ではないことがわかります。そこで私たちは聖書から第三の道を探ることになります。それは「神と隣人を愛す」という道です。神と隣人を愛すというのは、神から与えられた「課題」ですから、第一の課題解決型であるとも言えます。また、「愛されている」という受け身ではなく「愛す」という能動的な事柄でもあります。しかし、この能動は、そもそも神に選ばれたという「受容」が前提ですから、その意味では第二の「受容型」でもあります。一般的な「受容型」との違いは、「愛されている」という感情ではなく、神が選んだという神の行動が基礎になっている点です。では、この第三の道の実際はどのようなものでしょうか。
「人は愛されるためではなく愛すために生まれた(少なくともクリスチャンとして)」とする時、この「愛す」とは所謂「アガぺ」のことです。親愛の情、家族の情、友情、同士の結びつき等とは異なるもので、神から発している愛です。時に「無条件の愛」とも呼ばれ、相手の応答如何に関わらず与える愛だとも言われます。これは、その極限では「敵を愛す」という所まで行き、まさにそこで「敵である私たちのために死んでくださった」キリストの愛と繋がっている、そのような愛です。この「与える」愛は、見返りを前提としないものですから、残念なことに「報われない」ことが多いのは当然です。むしろ、地上で報われないで天で報われる方が良いとさえ言われる世界です。確かにこれは力強く高貴な生き方です。
しかし、ここでも疑問が起こります。そのような生き方が困難ではないかという当然の疑問もさることながら、相手の反応に関わらず愛すというのは、単なる自己満足に陥るのではないかという疑問です。自分は愛しているつもりだが、相手にとっては有難迷惑だというようなことは頻繁にあることです。やはり、「与える」一本やりではだめで、「愛しあう」という相互の関係が必要なのではないでしょうか。実際、キリストは弟子たちに「愛しあう」ことを命じられたのではないでしょうか。
それはそうなのですが、「愛しあう」というのは、「愛す」と「愛す」が共鳴した「結果」であり、「愛すから愛される」「愛されるから愛す」という交換条件とは違うということが先ず一点。また、一方的に愛すことが自己満足に過ぎない可能性は常にありますが、そこは、神の前にへりくだり続け、謙虚に神の導きを得る以外に避ける方法はなく、しばしばその結果は遠い将来にようやく表れるようなものかもしれず、場合によっては地上で見ることはできないこともあり得ます。究極的には「天での報い」の話になるのは、そういうことです。
少なくとも「当面報われない愛」を行うというのは、当然、快適な事ではありません。それはキリストの弟子への課題ですが、幸いなことに、この課題は大小さまざま、あらゆる所にあふれていて、見つけるのに苦労することはありません。また、これは所謂「福祉、慈善事業」のことだけを意味しません。「事業」はどのようなものでも「費用対効果」も含めて結果が求められますが、私たちの「アガぺ」はキリストのゆえに行われる、目に見えない小さな行動の積み重ねであり、その土台は祈りなのです。