メッセージ要約 2022925

マタイ福音書120節から25節 「マタイ福音書まとめ」

 

1:20彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。 

1:21マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」 

1:22このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。 

1:23「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。) 

1:24ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、 

1:25そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

 

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キリストの系図から始まり、「大宣教命令」で終わるマタイ福音書を読んできました。長い文書でしたので、最後にあらためて要点をまとめておきましょう。

鍵となるのはイエス様の誕生に先立って語られた御使いの言葉です。そこに、イエス様がどのようなお方なのかが簡潔に述べられています。第一に「聖霊によるお方」であること。第二に「イエス(神は救い)」というお名前、そして、第三に「インマヌエル(私たちと共におられる神)」の「意味」です。

 

系図は、イエス様がダビデの子孫であることを「形式的に」示しています。実質的には聖霊の子です。このことは、旧約と新約の関係が、「継承」と「飛躍」の二面性を持っていることを示しています。継承というのは、イエス様が律法の下にいるユダヤ人であることであり、飛躍というのは、聖霊によって律法が克服され、神の国がユダヤ人を超え、全世界に及ぶことを意味します。その大前提となるのが、イエス様と聖霊との不可分の関係です。まず誕生が聖霊によることが示され、公生涯の始めには聖霊が降り、「神の子である」という神の声が響きました。聖霊によって悪霊を追い出し、神の国の訪れを示しました。これらは神の働きの現実ですが、単に神の力の現れではなく、律法の克服という重大な目的があることがポイントです。(マタイ福音書では「克服」ではなく「完成」という表現になっています)。

 

その具体的な内容が「山上の垂訓」に細かく記されています。「今まではこう言われていたが、私はこう言う」という形での宣言です。これは旧約律法を否定して全く無関係のことを言われているのではなく、律法の外形ではなく、聖霊によって神の真意が啓示されているのです。その真意とは、神の恵みであり、それを福音書は様々な形で伝えています。ですから、私たちも聖霊によって、その真意を受け止めていくことが求められているのです。聖霊の働きの重要性については、神やキリストに対する冒涜が赦されるとしても、聖霊に対するものが赦されないとの言葉からもわかりますが、聖霊の働きと神の恵みが一つのことだという点を忘れてはなりません。

 

律法の克服とは、律法の解釈にとどまらず、神の恵みが及ぶ範囲の拡大の問題でもあります。律法によって神から見放された「地の民」(取税人や罪人)や、男よりも下に見られていた女性にも神の恵みが及んでいることがはっきりと示されています。福音書はそれを認めない宗教家たちとのやり取りがたくさん記されているのですが、この「範囲の拡大」は、ついにはユダヤ人(律法の民)を超えて異邦人にも及んでいくことになります。このことは、ユダヤ人向けに書かれたマタイ福音書の中では少ししか触れられていませんが、福音書の冒頭の系図に異邦人が含まれていることと、最後が「大宣教命令」になっていることから示されています。

 

第二のポイントはイエスというお名前です。「神は救い」という意味でユダヤでは一般的なものですが、ここでは特別な意味を持ちます。第一のポイントと相まって、「律法順守による救い」ではなく、「神ご自身による恵みとしての救い」へと飛躍しているからです。これは煎じ詰めると、「宗教ではなく神による救い」という根本問題になりますが、理屈ではなくイエス様との交わりによって初めて現実化されますから、これも結局、聖霊の働きに委ねることになります。

 

ここで問題となるのは「救い」の意味です。み使いの言葉では「ご自分の民を罪から救う」とあります。このこと自体は、旧約から一貫したテーマですが、ここでも第一のポイントとの関連があります。まず「ご自分の民」の意味です。旧約ではもちろん「ユダヤ人」を指していましたが、福音によれば、それは異邦人にまで拡がっていきます。これは「宗教勢力の拡大」の話ではなく、創造主である神は全世界の神であるという出発点がある以上、当然のことです。ここでも、「宗教ではなく神による救い」が示されています。

 

さらに「罪」の意味も深められています。単純に「律法違反」のことだけではなく、より根本的なことが問題となっています。そもそも律法の民ではない異邦人も含めた全人類が対象なのですから、人間にとって普遍的な事柄が扱われているのです。聖書の「罪」とは、もちろん神の意志に反することですが、律法ではその「意志」が規則として表れていると考えるのに対し、福音では「神との交わり」を損なうことを意味します。もちろん規則違反は問題ではありますが、違反が繰り返される根本原因こそが本質です。その「神との交わり」がどのようなものなのかを、イエス様は規則ではなく、その存在そのもので示されたのです。福音書は、イエス様の具体的な言動を通して、規則には還元できない「交わり」の在り方を教えています。

 

そして第三のポイントとして「インマヌエル」ということばがあります。「私たちと共におられる神」は、ただ神の遍在(どこにでもおられること)のことではありません。旧約では、イスラエルが敵から救われたり敵に勝利したりした時などに、神は自分たちの味方だという意味で、共におられる神をとらえていたと言えるでしょう。もちろん、今日でもそのように思う人が多いのも当然です。しかし、福音がもたらすものは、そのような「共におられたり、おられなかったりする」存在ではありません。「神との距離感」という感じ方は時と場合によって変わることもあるでしょう。しかし、「十字架上の強盗」のケースで見たように、人間の抱く距離感とは関係なく、イエス様は「共におられる」のです。それは、「共におられる」ための条件が人間の側ではなく神の側にあるからです。すなわち、神の恵みが土台となっているのです。

 

この「恵み」は罪を大目に見るということではなく、キリストの十字架によって、根本的に罪が処罰されたという神の業によるものです。そして「信仰」とは、その神の業に身をゆだねることです。福音書は、十字架を描くことによって、私たちに信仰を促しておられます。信じたら神がそばに来て下さるというより、キリストにより、神の方が罪人と共におられるのです。そして、それは一時のことで終わるものではなく、神の本性による永遠のことがらです。ですから、マタイ福音書は、「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエス様のことばで結ばれているのです。

 

<考察>                                                                      

1. マタイ福音書にどのような印象を持ちましたか?

2. 特に心に残っている個所はありますか?

3. 律法と恵みについて改めて整理しましょう。