メッセージ要約 2022925

マタイ福音書288節から20節 「大宣教命令」

 

28:8そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。 

28:9すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。 

28:10すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」

28:11女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。 

28:12そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、 

28:13こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。』と言うのだ。 

28:14もし、このことが総督の耳にはいっても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」 

28:15そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。

28:16しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。 

28:17そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。 

28:18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。 

28:19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、 

28:20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 

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空(から)の墓で御使いは、弟子たちはガリラヤに行けば復活されたイエス様に会えると言いました。ところが不思議なことに、墓から弟子たちの所に向かう途上で、女性たちはイエス様に会いました。また、ガリラヤ以外でのイエス様の顕現も記されています。歴史的な出来事の詳細は不明ですが、前回学んだように、自身の生活圏で復活のキリストとお会いできるという、福音の根本を読み取ることが大切です。

 

さて、ガリラヤに行った十一弟子は復活のキリストと会いましたが、そこである者はイエス様を礼拝し、ある者が疑ったとあります。ここに「復活体験」(復活のキリストと出会う体験)の特徴を見ることができます。もし「復活」が単に死者が蘇生するということであるならば、その生き返った人を「礼拝」したり「疑う」ことをしたりはしません。ユダヤ人は人間を礼拝することはありませんし、目の前にいる生き返った人を「疑う」とは何を疑うのかということになってしまいます。ですから、復活体験は霊的なことがらであり、多種多様な形をとるのです(ただし霊的というのは、必ずしも物質的なことと無関係という意味ではありません)。大切なのは、「キリスト体験」が一時の体験で終わらず、そこには「ことば」が伴ってくるということです。今回の箇所でも、イエス様は重要なメッセージを語っておられます。

 

このメッセージは、しばしば「大宣教命令」と呼ばれています。その内容を見ていきましょう。まず、「命令」の前提が語られます。「復活者」には一切の権威が与えられているというものです。パウロの手紙では「すべての名にまさる名」という表現になっています。ヨハネなら「神のひとり子」です。復活のキリストをそのような存在として受け取るというのは、旧約聖書の解釈から来るとは言え、最終的には理屈ではなく信仰によることです。要するに「イエスは主」という信仰告白であり、聖霊の働きの結果と言うしかありません。そして、その告白に対して「大宣教命令」と呼ばれる言葉が響いてくるのです。

 

この「命令」は一つの動詞(つまり命令)とその修飾語でできています。一つの動詞とは「弟子としなさい」で、それは、「行き」、「バプテスマを授け」、「教える」ことによってです。この「命令」は伝統的、組織的教会では、「いろいろな国に行き、人々に洗礼を授け、教会員に教会の教えを守るように教える」ことと解釈されてきました。近年では、教理を教え、礼拝を守るだけでなく、日常生活も指導するいわゆる「弟子化」も言われます。一方で、「あらゆる国の人々」を単純に「外国の民」と訳さず、文字通り「共通の文化を持つ人々の集まり」と解釈し、民族だけでなく、政治、経済、文化など様々な「領域」を「弟子化」しようと考える人たちもいます。つまり、社会の中の「教会」という領域だけでなく、社会全体を「キリストの教えに従属させよう」というものです。いわゆる「統治神学」と呼ばれるものです。この方向で逸脱すると、キリストならぬ自称メシヤの教祖に全てを捧げ、全世界を支配しようとするカルトになってしまいます。

 

ですから「キリストの教え」が何なのかというのが最重要なことです。その内容を伝えようとしてマタイ福音書が書かれたのですから、福音書全体から福音を読み取ることが必須となります。福音抜きで「弟子化」をするのは、結局マインドコントロールと変わらないのです。「罪の赦しと解放」が「キリストによる父なる神の恵み」であり、聖霊の働きによるものだというのが福音です。そして、その神のわざが、人々にも赦しと解放をもたらします。ここでの「人々」が、いわゆる教会員のことなのか、あらゆる領域の集団なのかは重要なことではありません。聖霊は自由に働かれるのですから、私たちはその働きに委ねるだけなのです。

 

この一連の事柄を整理すると、まず「聖霊」の働きによって罪が示され「キリスト」に導かれます。そしてキリストとの交わりを通して、聖霊によって福音の内容が現実化されていきます。そのことにより、父なる神の支配が現実化し、神に栄光が帰されるのです。ここに、聖霊−キリスト―父なる神という神の働きを見ることができます。いわゆる「三位一体」と後に呼ばれるものです。「一体」と呼ばれるのは、父、子、聖霊と三者が挙げられていながら「御名」が単数(つまり一つの名)だからですが、「名」は実質を指しているのですから、父、子、聖霊によって行われるひとつの働きと考えられるでしょう。そして、「洗礼を授け」と、まるで洗礼式という儀式を行えと言われているように見えますが、直訳すると、「名」の中に浸すということですから、神の働きの中に導き委ねるという意味になるでしょう。ちなみに、他の箇所では「キリストの名でのバプテスマ」という表現が使われているので、儀式にこだわる人の間では、洗礼式の文言は「父、子、聖霊の名」なのか「キリストの名」なのかという議論も起こりますが、「名」は実態であり、形がなく見えない「神」の実態は、その働きから知る他はないのですから、そのような儀式の文言についての議論は無意味でしょう。

 

このように、福音を現実化していくのが「大宣教命令」ですが、この働きは「ガリラヤ」つまり日常生活圏で起こると同時に、あらゆる「国」でもなされる、すなわち普遍的なものです。個々人の「特殊」な状況に根差しつつ、神の働きという「普遍的」なことでもあるという点がポイントです。これがすなわち、一切の権威があるということであり、「主の名を呼ぶ者は皆救われる」根拠でもあるのです。

 

<考察>                                                                      

1.「礼拝した者」と「疑った者」に分かれたのは何故でしょうか?

2. 福音の「弟子化」とカルト的な「マインドコントロール」との違いは何でしょうか?

3.「大宣教命令」は誰に対しての命令でしょうか?