メッセージ要約 2022年9月11日
マタイ福音書27章57節から66節 「空(から)の墓」
27:57夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。
27:58この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた。
27:59ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、
27:60岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。
27:61そこにはマグダラのマリヤとほかのマリヤとが墓のほうを向いてすわっていた。
27:62さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、
27:63こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる。』と言っていたのを思い出しました。
27:64ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった。』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」
27:65ピラトは「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい。」と彼らに言った。
27:66そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。
28:1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
28:2すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
28:3その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
28:4番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
28:6ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
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ユダヤ側からは神を冒涜する者、ローマ側からは反逆者として処刑されたイエス様は、通常であれば犯罪者用の共同墓地に捨てられるはずでしたが、ここにアリマタヤのヨセフという一人の金持ち(他の福音書では有力な議員)が現れ、遺体を引き取ることになりました。これがなければ、「空(から)の墓」の証言もあり得ませんでしたから、ここにも神のご計画を見ることができます。このヨセフはイエス様の、いわば隠れた弟子でしたが、この場面では、自分が危険にさらされることも覚悟の上で、この行動を起こしました。十二弟子のように、イエス様の復活予告を受けていたわけでもない彼が行動したのは、他の女性たち同様、おそらく単純にイエス様を敬愛する心の現れだったでしょう。その結果、間接的ではありますが、キリスト復活の大切な証人となりました。ここに、様々な形で証人となるべく導かれる人の姿を見ることができます。
彼は、イエス様の遺体を自分の新しい墓に納めました。当時の墓は、自然あるいは人工の洞窟のような所に、しばしば複数の遺体を治め、土に還ったなら、それを壺に納めるという形だったようです。そのような墓が多数エルサレムにあったのは、当時の、ある種の復活信仰の故でした。それは、メシヤがエルサレムに来臨し、そこに眠る人々が生き返り、神の国に入るというものでした。それは「復活」と言っても、文字通り生き返るイメージでしたから、エルサレムで埋葬されていることが重大視されたのです。アリマタヤのヨセフも、出身地はエルサレムから離れていましたから、そのような信仰でエルサレムに新しい墓地を作ったと思われます。
そのような、いわば「物理的な復活信仰」は、当時非常に盛んだったことが、今日も残っている多くの墓から類推できます。そして、そこでは、墓から死者が出てくるという事象が重要になります。祭司長たちが、ピラトに墓を監視し、遺体が盗まれないように要求したのも、そのような背景があったからです。当時、死者の墓が空(から)になるというのは、終末的な意味を持っていましたから、弟子たちが遺体を盗んで、終末を自作自演するのではないかとの疑念が持たれたのです。そして、「弟子たちが盗んだ」というのが、イエス様に反対する人たちの主張であり、今日もそのように考える人がいます。
ここで、「空(から)の墓」に関する主な見解を確認しておきます。第一は、もちろんイエス様の墓は空(から)となり、復活されたという弟子たちの立場です。第二は、墓が空(から)だったのは、弟子たちが盗んだからだという主張です。第三は、墓は空(から)ではなかったが、弟子たちが墓を間違えたという説です。第四は、墓が空(から)だったという話自体がフィクションだというものです。常識的に考えるとどれも「ありそうもない話」です。「復活」が常識を超えているのは当然として、弟子が盗んだとしたら、遺体を抱えながらそれを隠し通して宣教を拡大できたというのは無理があります。墓を間違えたとしても、敵がそれを指摘すれば話が終わるだけですし、話自体がフィクションであったら、同時代の人々に訴える力はなかったでしょう。ただし、そのような可能性を検討した結果、消去法で「復活」を信じるというのは本筋ではないでしょう。それは、「復活」についての話を信じるということであって、今も生きて働いておられるイエス様とつながるという意味での信仰とは異なるからです。
「空(から)の墓」のシーンに戻ります。地震が起こり、墓を封印していた石が移動しました。それはみ使いの業、つまり天的な出来事でした。まず、番兵たちは、そのみ使いに恐れをなして死人のようになってしまいました。女性たちも恐れましたが、そこにみ使いの言葉が響きます。み使いを見て、死んだようになるというのは、旧約時代から何度も起こってきたことです。神を見た者は死ななければならないとは聖書の基本です。聖い神の前には汚れた人は立てないということです。み使いは神ではありませんが、神的なオーラを放つみ使いと神との区別は、人には難しいのでしょう。いずれにしても、そのような状況では恐れおののく他ないのですが、そこで神のことばが響いてくるかどうかが死活問題となります。墓の前で恐れている女性たちにみ使いが語ったことばが、死んだような人間にいのちを与えるものとなりました。
「ここにはおられません。よみがえられたのです」。空(から)の墓という物質的な現実と、復活という霊的(超自然的)事実が結びついたという宣言です。繰り返しになりますが、これは非常識(超常識)なものです。あくまでも、神のことばだけが基盤である事柄です。ここからは、その復活の内容自体が問題となります。それは、当時広がっていた、「聖徒が生き返ってエルサレムに住む」というようなものでしょうか。今回の箇所に続いて不思議なことが語られています。復活されたイエス様とはガリラヤで会えるというのです。なぜエルサレムではなくガリラヤなのでしょうか。ここですでに、当時の「常識」とは違う「復活」の姿が現れています。ガリラヤはイエス様と弟子たちの「日常生活圏」です。このことは、当時の弟子たちだけではなく、だれでも自分の生活圏で復活のキリストと出会うことができる「新約時代」が到来したことを示唆しています。すなわち、エルサレムという物理的な場所の制約から自由な「神の国」の到来を表しているのです。私たちもあらゆる場所でキリストとお会いできることに感謝し、御言葉を慕い求めつつ、神の国(支配)と神の義を第一に求めていきましょう。
<考察>
1.「空(から)の墓」についての様々な見解についてどう思いますか?
2.弟子たちは、ガリラヤで復活のキリストと会えるということについて、何を思ったでしょうか?
3.「復活」について尋ねられたら、どう答えますか?