メッセージ要約 202294

マタイ福音書2745節から56節 「イエス様の死」

 

27:45さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。 

27:46三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。 

27:47すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。 

27:48また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。 

27:49ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。 

27:50そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。 

27:51すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。 

27:52また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。 

27:53そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。 

27:54百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。 

27:55そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。 27:56その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。

 

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イエス様の死に際して三つのポイントに注目します。第一は、「しるし」が示すもの。第二はイエス様の「ことば」、第三は周囲の人たちの姿です。第一の「しるし」とは、イエス様の死が「終末」的な出来事であることを示す現象のことです。「全地が暗くなったこと」(アモス89節)、「神殿の幕が裂けたこと」「地震が起きたこと」(エレミヤ1010節など)「人々が生き返ったこと」(エゼキエル37章など)です。この中で「天変地異」についての箇所は、どれも旧約の預言者たちがしばしば言及してきた「神の審判」に伴って起きるとされる天変地異を表しています。ですから、イエス様の十字架は、ある意味で「神の審判」が行われた出来事であることがわかります。

 

神の審判に天変地異が伴うというのは、全ての天変地異が神の審判だということを意味しません。(逆が真であるとは限らないということです)。地震の頻度をもって神の裁きの程度を測るとすると、日本は世界でも有数の「裁き」を受けていることになりますし、そのように主張する人もいますが、終末の「裁き」は全地に対して行われるものですから、単純に日常の自然現象と混同することは避けなければなりません。私たちはむしろ日常の危機(例えば地震)に接した時、神が被災者を裁いたのではなく(逆に被災していない人が裁かれていないという意味でもなく)、その時の悲劇を通して、「終末」の裁きを想起すべきでしょう。悲劇に接した時に、多くの人の反応は「だから神などいない」となるか「やはり神は酷い」でしょう。心情は分かりますが、話はそれで行き止まりです。しかし私たちは、日常の天変地異は、終末の天変地異を想起させるものであり、さらに、終末の天変地異も、それ自体が終末なのではなく、真の「終末」のしるしであるということを知っています。その意味では、あくまで「未来志向」ということです。

 

「終末」は「審判」と共に起こりますが、それに尽きるわけではありません。「復活」と「新天地」が伴います。「復活」は「審判」の結果、義とされたものにいのちが与えられるということを意味します。また、「新天地」は、天と地がひとつとなること、すなわち神と人が共に住むことを意味しています。神殿の幕は、神の臨在する至聖所と人のエリアを区別するものですが、それが破れたのは、神と人とを隔てるものがなくなったということですから、これも「終末」を表しています。

 

問題は、そのような「未来」に属することが、なぜ十字架の現場に現れたのかということです。これこそがまさに「福音」の本質にかかわることであり、第二のポイントです。まず「審判」について言えば、キリストの十字架こそが、神の審判が行われた場所だということです。イエス様が十字架上で、「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだことについては、キリストともあろう者が何故そのようなことを言うのかという素朴な疑問があります。そこで、その言葉は詩篇22篇の冒頭であり、冒頭を引用するのは全体を語っていて、最後が賛美で終わっているのだから、結局イエス様は賛美をしておられるのだと解釈する人もいます。しかし、解釈はどうであれ、ゲッセマネの祈りで学んだように、十字架は正真正銘神の裁きが行われたのであり、イエス様は全人類を代表して、ここで裁きを受けられているのです。つまり、十字架のイエス様の上に「終末」が到来したのです。キリストが私たちの罪のために死なれたというのは、そういうことです。

 

そして、審判が完了したがゆえに、義であるキリストは復活し、キリストのからだが裂かれたことで、至聖所と外部を分ける壁は取り払われました。十字架とともに、これらの「終末」的な事態が到来したというのが、マタイの主張であり福音に他なりません。ただし、それは「到来」したのであって「完了」したのではありません。到来から完了までは、まだ長い期間がかかるのであり、それが福音宣教の時代なのです。その宣教されるべき福音はこうです。キリストの十字架(裁き)は私たちの裁きであり、キリストにあって私たちは赦されました。今や、私たちはキリストにあって、だれでも大胆に神の前にでることができます。そして、霊のみならず、からだも復活し、文字通り新天地が目に見えるかたちで到来するのを待ち望んでいるのです。

 

当時、十字架の出来事を見ていた人々は、これらの出来事を見て非常に恐れました。日本だったら、これは何かの祟りなのかと思ったかもしれません。「異常現象」を見て怖がること自体は珍しいことではありませんから、百人隊長らが、イエス様を「神の子」だと思ったことはあり得ます。とは言え、その「神の子」が何を意味していたのかが問題です。聖霊が来られるまでは、その真意はだれにもわからなかったのですから、彼らも神の子の意味は理解していなかったでしょう。しかし、彼らがユダヤ人ではなくローマ人だったという所がここでのポイントです。結局、イエス様を神の子と告白できるのは、ただ神の恵みと啓示によるのだということが分かります。

 

さらに、その恵みと啓示は、イエス様についてきた女性たちにも与えられていました。男性の弟子たちは皆逃げていってしまいましたが、女性は留まっていたのです。彼女たちも、神学的にメシヤがどういう存在なのかということを理解していたわけではなく、純粋にイエス様を慕い、お仕えしようという気持ちだけでそこにいたのでしょう。その筆頭には、マグダラのマリヤの名があがっています。彼女は復活の目撃者としても登場している重要人物ですが、聖書では悪霊を追い出していただいたことしか書いてありません。(しかし西方教会では罪深い女と同一視され、のちに様々な伝説や妄想が生み出されました)。いずれにせよ、十字架の目撃者は、ローマ人と女性という、ユダヤ人男性社会からは見下されていた人々に光が当たっていることも、福音を指し示しているのです。

 

<考察>                                                                      

1.「終末」と「天変地異」がセットで語られるのは何故でしょうか?

2.イエス様の「十字架上でのことば」について、他の福音書も読んでみましょう。

3.理解していない者にも神のメッセージが啓示されるのは何故でしょうか?