メッセージ要約 2022828

マタイ福音書2738節から44節 「十字架上の強盗」

 

27:38そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。 

27:39道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、 

27:40言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」 

27:41同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。 

27:42「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。 

27:43彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」 

27:44イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。

 

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十字架につけられたイエス様の両側には、ふたりの「強盗」も磔にされていました。マタイ福音書(マルコ福音書も)では、この二人がイエス様を罵ったと書かれています。「強盗」となっていますが、単なる強盗ではなく、武力によってローマからユダヤを解放しようとしている「武装団」の一員のことであり、ローマ側からすればテロリストという存在だったのでしょう。彼らから見れば、「ユダヤ人の王」などと呼ばれていても、ローマの前に全く無力に見えたイエス様など、侮蔑の対象だったことは想像に難くありません。これまでも見て来たように、人々にとって「王」「メシヤ」とは力を持ち、力を示すべき存在でしたから、「無力」の者など論外だったのです。ただし、ルカ福音書では、二人のうちの一人がイエス様を信じたように書かれています。これについては、初めのうちは罵っていたが、イエス様の姿を見て後に回心したという説明がされることもありますが、詳細は分かりません。歴史上の出来事としての実際はどうであれ、この「二人の強盗」は、後に象徴的な意味を持つようになります。

 

象徴的な意味というのは「キリストと共に十字架につけられる」という表現の意味です。前回、イエス様の十字架(の横木)を背負わされた人に関連して、「十字架を背負う人生」について触れました。そこでのポイントは、「私たちがキリストの道を歩む」ということの重要性と同時に、「私たちはキリストではない」という絶対的な事実です。「キリストにならう」ことは「キリストになる」という意味ではないということです。これは、どんなに強調してもし過ぎることはありません。今日でも、自称メシヤの教祖を戴く団体が、信者に「小メシヤとして家族を救え」と命じ、その実現のために全財産を含む全面的な献身を要求するというような話も耳にしますが、「自己否定」から「献身」が必ずしも「キリストにならう」十字架の道だとは限りません。私たちは、イエス様と共に十字架につけられた「強盗」同様、あくまでも自分自身の罪を背負っているのであって、他人の罪を背負うキリストとは反対の立場にあるのです。

 

その大前提の上で、「キリストと共に十字架につけられる」ことの意味を理解することが必要です。このことに関しては、使徒パウロがローマ書とガラテヤ書の中で書いています。ローマ66節には、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」とあります。この「つけられた」というのは、ある時点で明確に起こった事柄を表現しています。言うまでもなくイエス様が十字架につけられたのは約2000年前のことです。使徒パウロや当時の人はともかく、私たちは当時生きていたのではありませんから、それは当然、霊的な意味合いを持つものとなります。問題は「古い人」です。その「古い人」は、ある時点で明確に十字架につけられたというのですから、それは、今も戦っている、いわゆる「肉」つまり、生まれつきの性質を指すのではなく、古い人生全体を表すと考えることができます。すなわち、私たちの人生はキリスト以前の「古い人(人生)」とキリスト以降の「新しい人(人生)」に二分されるということです。

 

私たちが、聖霊の導きによりイエス様の名を呼び求め、キリストとつなげられた時に、私たちはいわば「十字架につけられた」のです。というのは、私たちが呼んだイエス様は、今生きておられるお方ですが、同時に十字架につけられたお方だからです。より正確に言えば、私たちがキリストにつながることができるとすれば、それは、十字架のキリストを通してでしかあり得ないということです。十字架以前のキリスト、十字架抜きのキリストでも、近づくことだけなら可能でしょう。しかし、決して親密につながることはできません。罪ある者が、罪のない者とそのまま一体化することはできないからです。私たちは、さまざまな形でキリストと出会うことはできますが、やがて、単なる友人や崇拝の対象として付き合うことができない段階に導かれます。すなわち、私たちの罪深さが示される時です。つまり、罪人としてキリストの前に出る時であり、その時こそ、キリストが「十字架上のお方」として現れるのです。

 

十字架上のキリストが私たちの罪を背負われたというのは、罪においてキリストと私たちがつながったということです。罪のないお方が、罪人である私たちと同じ立場で立ってくださったのです。このことについてパウロは「私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになった」と表現しています。「十字架につけられた」のは具体的なある時点で起こったことですが、それはキリストとのつながりが始まった時点です。その後も私たちはキリストとつながったままです。「キリストの死と同じようになった」とは、死においてキリストとつながり続けているという意味です。(一旦つながって、今はそれぞれの道を歩んでいるのではないということです)。新しい人生が始まっていますが、十字架が過去のもので無関係になったわけではありません。

 

そのように十字架においてキリストとつながっているとどうなるのかが書いてあります。「必ずキリストの復活とも同じようになる」のです。「キリストの復活と同じように」も難しい言葉です。もちろん、私たちがキリストになるわけではありません。パウロは将来の究極の姿について描写はしていませんが、「新しい人」について、「罪のからだが滅びて(無効となり)、罪の奴隷でなくなること」と説明しています。以上をまとめると、私たちの古い人がキリストと十字架につけられたことにより、私たちの罪が赦され、私たちの新しい人が復活のキリストとともにあることにより、私たちが罪の支配から自由になる、つまり、罪の赦しと罪からの解放がセットで語られているということです。

 

この消息を十字架上の二人の強盗で表現したのがルカです。強盗のうちの一人がイエス様に「あなたが御国の位に着く時には私を思い出してください」と頼みました。素朴な表現ですが、キリストと共に十字架につけられた者が、復活のキリストとのつながりを求めたのです。これが「主の名を呼ぶ」ということです。その彼にイエス様は、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と答えられました。当時のパラダイスというのは、究極の御国が来るまでの間、死者が暫定的に留まる場所の内、天に近い方のことですが、そのような「死後の世界」を詮索するよりも大切なのは、きょう、今すでに、彼はキリストと共にいる、それも偶然、十字架がとなり合わせだったということではなく、真にキリストにつながっているという事実です。それは彼が予想したことをはるかに超えたものでしたが、これこそが神の恵みであり福音なのです。

 

<考察>                                                                      

1.十字架抜きのキリストを信仰するというのは、どういうことでしょうか?

2.十字架上のキリストを崇拝することと、共に十字架につけられることとの違いは何でしょうか?          

3.なぜ「主の名を呼ぶ者は皆救われる」のでしょうか?