メッセージ要約 2022年8月21日
マタイ福音書27章27節から37節 「ゴルゴタへの道」
27:27それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。
27:28そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。
27:29それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」
27:30また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。
27:31こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。
27:32そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。
27:33ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、
27:34彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。
27:35こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、
27:36そこにすわって、イエスの見張りをした。
27:37また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。
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当時、十字架刑を受ける者は、まず徹底的に鞭打ちなどで痛めつけられ、その後、自ら十字架の横木を背負って刑場まで引っぱられていきました。しかし、マタイはそのような残虐な行為の詳細ではなく、イエス様の姿を浮き彫りにする象徴的な出来事に絞って記しています。兵士たちが、緋色の上着を着せ、いばらの冠をかぶらせ、笏に見立てた葦の棒を持たせたとあります。「こんなに惨めな男がユダヤ人の王なのだ」と言わんばかりの侮辱を重ねているのですが、期せずしてそれが旧約に記されている「主の僕」としてのメシヤ像を浮き彫りにしています。私たちはそこに神の永遠のご計画が進行していることを知るのです。
緋色の上着(マルコでは紫)は、王の衣装のパロディーでしょうが、緋色は少なくとも二つのものを連想させます。一つは「罪」です。イザヤの預言(1章18節)に「あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」とある通りです。因みに、ここでの「緋」は、二度染めの赤のことです。もう一つは「血」です。同じくイザヤ(63章1〜6節)には、イスラエルを救い、敵である異邦人諸国に復讐される「血染め」のヤハウェという恐ろしい記述がありますが、ここでの血は、罪への報いと考えられます。さらに黙示録(19章13節)では、再臨のキリストが「血に染まった衣を着ている」と表現されています。これも、それ自体はイザヤの預言を踏襲していますが、しかし、福音の光に照らされると、意味合いに大きな転換が起こります。すなわち、血染めの衣がキリストご自身の血とつながって来るのです。ですから、同じ緋が、一方では罪を表すと同時に、もう一方では罪をきよめる血潮をも表すことになります。
いばらや葦についても連想させるものがありますが、深入りはせずに、酷い侮辱と、それに対してただ黙しておおられるイエス様の姿をしっかりと捉えることが大切でしょう。それは同じくイザヤの預言(50章5〜6節)に記された「主のしもべ」の姿です。「私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった」とある通りです。このような「主のしもべ」が真の意味での「ユダヤ人の王」であるというのは、まさに奥義です。そしてそれは、当時も今も、残念なことに、ある人々にとっては愚かで躓きなのですが、聖霊によって示された者にとっては救いに他なりません。
徹底的に痛めつけられたイエス様は、元の服を着せられ、またおそらくいばらの冠はそのまま、十字架の横木を背負わされ、処刑の場所まで向かいます。しかし、もう体力の限界だったので、兵士たちはたまたま通りかかったクレネ人シモンに横木を背負わせました。十字架の現場では、受刑者を取り戻そうとする弟子や仲間を排除するために警備がなされ、近づくことができたのは基本的に女性だけだったようです。シモンはたまたまエルサレムの郊外(反対方向)から来た男性だったので、背負うことになったと思われます。因みにマルコ福音書には、シモンの二人の息子の名前も記されており、彼らは後に教会の中で知られた存在となったと言われています。おそらく、シモンはこの強烈な体験を一つのきっかけとして、後にキリスト者となり、その信仰が子どもたちにも伝えられたのでしょう。ここにキリストとの出会いの多様な形を見ることができます。その時には「たまたま」に思えることが神のご計画であり、「理不尽」に見えることが大きな祝福をもたらすことがあるのです。
このシモンの出来事は、後に霊的・象徴的にも解釈されるようになります。すなわち、私たちもキリストの十字架に参与するという意味です。イエス様は弟子たちに「自分の十字架を背負って従いなさい」と言われたので、十字架を自ら背負う弟子の歩みを読み取る人もいますが、ここではむしろ、たまたま、無理やり、理不尽な状況にある者が、信仰によってそこにキリストを見出し、キリストの十字架の出来事に参与することができることを見ることができるでしょう。もちろん、参与するといっても、シモンの場合、それは一部のことであり、彼自身が十字架につけられたわけではありません。私たちの経験する不条理は、どんなにそれが大きなものであったとしても、キリストの十字架と等しくなるわけではありません。要するに私たちはキリストではないのです。それにもかかわらず、パウロは、「私たちがキリストと共に十字架で死ぬ」ことについて語っています。このことについては、次回の箇所で扱うことになります。
ついにイエス様はゴルゴタと呼ばれる処刑の場所で、十字架にかけられます。
そのイエス様の頭上には、「ユダヤ人の王」という罪状書きが掲げられました。もちろん、ユダヤ人の王を騙った者という意味でつけた罪状なのですが、そのように見なされ処刑されたお方が、実は真の「王」であるというのが、まさにマタイ福音書(そして聖書全体)のメッセージに他なりません。もちろん、異邦人である私たちにとっては、イエス様はユダヤ人だけでなく、諸国民にとっても王なのですが、ただ漠然と「一番偉い王様」というイメージを持つだけでなく、具体的に「ユダヤ人の王」としてのイエス様が十字架につけられたという歴史上の現実がまずあります。その上で、そのお方が異邦人である私たちの「王」でもあるという点が大事です。
これは、要するに全人類の王ということですが、単純に見ると、何か世界政府のような組織の頂点に君臨する絶対君主のようなイメージを持ってしまいがちです。もちろんそれは表面的な考えです。そのような君主は、それが絶対君主であっても、いわば「外側」から人を支配することしかできません。もちろん心に訴えることはするとしても、あくまでも君主と臣民は別です。しかし、キリストは私たちに内在されます。それも、単に「内側」から声をかけて支配するというのではなく、そもそも、キリストが私たちの存在そのものの根底だということです。力関係で強いものが弱いものを支配するのではありません。本来、神と人(被造物)とは絶対と無との関係なのです。その無である人間が、キリストを通して神の子どもとして受け入れられるというのが神の絶対的な恵みであり福音に他なりません。
<考察>
1.「苦難のしもべ」を黙想しましょう。
2.「偶然」の背後に神のご計画を見出したことがありますか?
3.「王」という存在について考えでみましょう。