メッセージ要約 2022年8月14日
マタイ福音書27章11節から26節 「ピラトによる裁判」
27:11さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。
27:12しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。
27:13そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。」
27:14それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。
27:15ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。
27:16そのころ、バラバという名の知れた囚人が捕えられていた。
27:17それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
27:21しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
27:22ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
27:23だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。
27:24そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
27:25すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」
27:26そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。
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今回の箇所から三つのポイントを見ていきます。第一はピラトとの一言だけの問答。第二はバラバについて、第三は責任の所在です。そして、それら全体の背後に、神のご計画があることを学びましょう。
第一はピラトとの問答です。当時のユダヤの総督であったピラトは、その残酷な性格で知られていますが、この箇所では驚くほど優柔不断な姿勢を示しています。もっとも、当時ローマ側としてはユダヤの宗教問題そのものには関心がなく、政治的な意味合いがある場合に限り介入することが多かったのですから、群衆の暴動を押さえるための政治的打算で動いたとしても不思議ではないでしょう。ですから、ピラトはイエス様に向かって、政治的な要素のある質問をします。あなたはユダヤ人の王なのかというものです。このような質問をしたということは、ユダヤ側がローマ側にイエス様を引き渡す際に、この者はユダヤの王を騙っていると訴えたのでしょう。当時、自称メシヤが独立運動を率いることが起こっていましたから、もしそうであれば当然反逆罪として処刑されてしかるべきでした。
この質問へのイエス様の答えは、直訳すると「あなたが言う」で、大祭司の時と同様、不思議なものです。「メシヤ」も「王」も、語る人によって意味が異なるのですから、「その質問はそのままお返しします」ということにもなるでしょう。ピラトの法廷でイエス様が口を開いたのはこれだけで、ユダヤ側が何を訴えても沈黙を通されました。これにピラトは大変驚いたとあります。反逆を認めるでもなく、かと言って無実を訴えるでもない姿は、ピラトの理解と想像を超えるものだったでしょう。この「王」の意味あいについて、ヨハネ福音書では、さらなる問答の形で語られています。「わたしの国はこの世のものではない」ということです。「王」も「王国」のこの世の通常の意味とは異なるのです。その違いを私たちは「福音」によって知ることになります。その上で「神の国と神の義」を第一に求めていくのです。
第二にバラバかイエス様かという選択です。ピラトは政治的妥協として、一人の囚人を釈放するという形で騒動を納めようとしました。群衆に人気があったイエス様の釈放を人々が求めると思いきや、バラバの釈放を要求してきました。おそらくピラトには、「罪人や取税人の友」であり、癒しによって人気があったに過ぎないと思われるイエス様が「王」であるとは思えなかったでしょう。しかし、群衆の熱気に押され、自分には責任はないと言い放って、群衆の言うとおりにしてしまいました。バラバは単なる強盗ではなく、武力による独立運動の活動を行っていたものですから、ここに、武力による「この世の王国」と、イエス様の十字架による「神の王国」との対比が明らかになり、人々が前者を選択したことになります。
この選択はもちろん「誤り」であり、結局イスラエルは武力によって滅亡することになります。ただし、この誤りを批判することは簡単であっても、十字架の道を選択することは決して安易なことではありません。その門は狭いと言われているとおりです。ここでの「この世の道」とは、「力は正義なり」ということです。ただ、力は単に「武力」だけを意味するものではありません。先日ローマ法王が、カナダで行われていた先住民に対する同化政策でなされた虐待について謝罪しましたが、文化、宗教による「植民地化」は今日でも形を変え、さまざまな所で行われています。要するに神の支配ではなく人の支配なのですが、それを「神の名」のもとで行うという恐ろしい倒錯です。このような倒錯から解放されるには、ただ神の前にへりくだるしかありません。そして、十字架を信頼し、聖霊の導きに身をゆだねるのです。
第三に十字架刑についての責任の問題です。まずユダヤの権力側は、処刑をローマ側に委ねることによって、見かけ上の責任を回避しようとしました。次にピラトは群衆の要求という形をとり、自らの責任を回避しようとしました。ここまでは、よくある「相互無責任」関係です。しかし不思議なことですが、最終的に群衆は自分たちが責任を取ると言っています。もちろん、その責任とは、「無実の人を殺した」責任ではなく、「正当な処刑を要求したこと」についての責任という意味でしょう。その人の血が子々孫々ふりかかってもいいというのは、ある種の誇張表現でしょうが、この句が悪用され、やがて「反ユダヤ主義」(ユダヤ人はキリスト殺しの呪われた民族だという主義)の根拠となってしまいます。しかし、マタイ福音書は「ユダヤ人のユダヤ人によるユダヤ人のための書」ですから、そのような反民族主義がとんでもない誤解であるのは言うまでもありません。そうではなく、キリストを十字架につけたのは、当時の一部の人たちだけではなく、あらゆる人に内在し、また支配している罪であり、それは民族も時代も超えているということがポイントなのです。宗教者の悪意、政治家のポピュリズム、群衆の無知と熱狂、それらはまさに今現代の問題でもあることを忘れてはなりません。そのような罪のただ中で、イエス様は黙して十字架に向かわれたのです。
このようにして、ピラトのもとでイエス様は十字架刑に服することになりました。このことの歴史的な意義を忘れないために、ピラトの名は後に「使徒信条」の中に残ることになります。しかし、それは単に彼個人の問題ではなく、キリストを十字架につける人類全体の罪を表すものなのです。
<考察>
1.ピラトの姿を今日も見ることができるでしょうか?
2.「バラバ」は「父の息子」という意味で、名は「イエス」だったようです。これは何を意味しますか?
3.結局、群衆は何を望んでいたのでしょうか?