メッセージ要約 2022731

マタイ福音書2647節から56節 「逮捕」

 

26:47イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。 

26:48イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。 

26:49それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で。」と言って、口づけした。 

26:50イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。 

26:51すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。 

26:52そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。 

26:53それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。 

26:54だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」 

26:55そのとき、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。 

26:56しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。

 

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いよいよイエス様が逮捕される時がきました。裏切ったユダが祈りの場所を通告していたので、人目にさらされない状況で実行することが可能となったのです。公然と行うと群衆が騒ぎ出し、下手をすれば暴動にもなりかねないと危惧したからですが、そのようなイエス様を慕う群衆もいた一方で、ここでは武装した群衆が祭司長たちから差し向けられてやってきたとあるのが特徴的です。同じ群衆が様変わりしたのか、もともと賛成派・反対派両方の群衆がいたのかはさだかではありませんが、いずれにしても、群衆心理というのは実にあてにならないものであることがわかります。もっとも、ヨハネ福音書の記述では、かなりの規模の兵隊がやってきたとありますから、実態は複雑であったと思われます。武装していたことは確かなので、戦闘行為になる可能性が高く、武力鎮圧が必要であったと考えていたことは確かでしょう。実際、他の「自称メシヤ」(ローマ側からすれば反逆者)の運動の中には、武装したものもいたのですから、これは当然のことでした。

 

しかしイエス様がそのような反逆者(テロリスト)などではないことが、これまでの言動だけでなく、この瞬間にはっきりと示されました。イエス様と一緒にいた者のひとりが剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかりましたが、そこでイエス様は「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」と言われました。イエス様の言動は一貫していて、武力によるローマからの解放を目指すのではなく、敵さえも愛す道を示されました。ただし、そのことは、いわゆる平和主義や、まして非武装・無抵抗主義が必ず成功することを保証はしていません。というのは、イエス様は、結局のところ、熱心党らの目指す武力による独立運動が主導となり、ローマからの反撃でエルサレムが崩壊してしまうことを予期されていたからです。その時に弟子たちには戦うのではなく逃げるように言われていました。世間からは裏切者、非国民と呼ばれることも覚悟をしなければならない、苦渋の選択を迫られたのです。

 

このことは、いわゆる非武装主義や無抵抗主義といった「主義」の問題ではない事に注意が必要です。イエス様が語り、もたらそうとされているのは神の国であり、この世の国の単なる改良ではないのです。もちろん、私たちは少しでもこの世が改善するように努力すべきです。そのために生まれて来たとさえ言えるでしょう。「平和を造る者は幸いであり神の子と呼ばれる」ともある通りです。しかし残念ながら、努力すれば必ず改良できるといった単純なことではありません。人類を蝕んでいる罪は非常に根深いということを知っているからです。私たちはその意味で現実主義者・リアリストでもあります。だからこそ、神の国が来るように祈り続けているのです。そのリアリズムの中で、ある時は迫害の中に甘んじてとどまり、またある時は逃げることも必要となります。ただし、自ら迫害する側にまわるということはあり得ません。「剣をとる者は剣によって滅びる」というのは厳粛な事実ですが、それは戦争一般だけでなく迫害のことも指していることを忘れてはなりません。

 

平和主義は弱者の論理であり、力こそが正義だという考えがあります。建前ではそうでなくても、本音ではそうだという人も多いでしょう。この世のリアリストの考えです。私たちのリアリズムはこうです。ある意味では力が正義を保証します。しかし、その力は神の力です。イエス様は、必要ならば天使の軍勢を遣わしてもらい、迫害者を撃退することもできると言われた通りです。しかし、そのような力の行使は、神のご計画に反すると言われました。イエス様は十字架にかかることが御心だと確信しておられたからです。つまり、「神が力を行使しない」ことが、この時の御心だったのです。しかし、このことを誤解して、「結局、神は無力なのだ」という人たちが出てきます。「無力でないなら無関心なのだ」とも言います。要は、神は人のすることに関わらないと言いたいのです。もちろん、私たちは、神が実に細かいことにまで関わってくださることを知っています。とは言え、しばしば重大な悲劇が放置されているように感じることもあります。

 

ここでまず理解すべきことは、神が人間を力で制圧するのは、最終手段である場合だということです。人間社会でも、警察が銃を使うのは他の手段がない時です。警察にまさり、神の実力行使に対しては人は何もできません。だからこそ、その最終手段を待たずして、私たちは平和を造らなければならないのです。最終的には人の行いを無視して、神は平和をもたらすことができますが、それをハッピーエンドと呼ぶのは難しいでしょう。ここに神の忍耐があるのです。

 

また、もうひとつの危険として、人が勝手に神の名を使って力を行使する可能性があります。いわゆる「聖戦」を称える人たちであり、カルト集団の論理でもあります。世界を破壊する宗教カルトが、イエス様とは正反対の道であることは言うまでもありません。(ただし、そのような危険は集団だけではなく個人にもあることは注意が必要です)。イエス様が捕えられた時、弟子たちが皆逃げてしまったのは、もちろん人の弱さの故ですが、逃げずに戦っていたら、それはそれで間違った力の行使になっていたでしょう。そのことも含めて、すべては神のご計画、すなわち私たち罪人を救うために十字架にかかるという計画の中で行われたのでした。ですから、私たちは神のご計画と、神の真実を信頼しなければなりません。「神の国(支配)と神の義を第一に求めよ」とある通りです。

 

<考察>                                                          

1.人目につかない夜に逮捕しながら、十字架という公衆にさらす仕方を選んだのは何故でしょうか?

2.「正当防衛」についてどう思いますか?       

3.「神の弱さは人よりも強い」というパウロの言葉を黙想しましょう。